最新情報&更新情報

2017.5.14. 十字架の死と復活の原則―日々の十字架を代価として払って主に従う―「私に従って来なさい、死人を葬るのは死人に任せなさい」―

2017.5.8.  十字架における死と復活の原則―神の御前での単独者としての厳粛かつ孤独な歩みを決して忘れるな―

2017.5.7. 十字架の死と復活の原則―死よ、おまえの棘はどこにあるのか。死を打ち破り、よみがえられたキリストの御業―

2017.5.4. 十字架の死と復活の原則―燔祭として神に捧げられ、死んでよみがえらされ、神の手から返された新しい人―

ブログとホームページの趣旨

このホームページには「私ではなくキリスト」(旧「東洋からの風の便り」)のブログ記事内容がテーマごとにまとめられています。
ちなみに、「東洋からの風の便り」という名称は、東洋の非キリスト教国から発信しながらも、御霊によって生きる信徒の信仰生活の記録を「風の便り」にたとえたものです。

これらのブログには、すべてのクリスチャンが、キリストと聖書の御言葉だけに立ち返り、人間の指導者につき従うのでなく、御言葉なるお方によって健全かつ平安な人生を進めるために、神がどのように真実で誠実なお方であり、この方のみを頼りとして生きるべきか、筆者自身が自らの信仰生活を通して学んだ事柄を綴っています。

近年、キリスト教界には、聖書に基づかない様々な運動が溢れ、中には、カルトを取り締まり、キリスト教界を浄化するという名目で、盛んにキリスト教や教会や信者を訴えている被害者運動のようなものもあります。

しかし、人間の正義感に基づき、聖書の御言葉に従わずに、人間を救済することだけを目的に掲げる運動は、カルト以上の深い闇を生むだけです。私たちにとっての真実な救い主はイエス・キリストのみであり、そこから目をそらせる人間の運動は、どんなに人間の目に正義と見えても、すべては罪によって腐敗しており、目的に掲げている救済をもたらすことはできません。

「日の下に新しいものは何もない」と聖書が述べている通り、異端の教えには決まった基本構造があり、その原型はグノーシス主義にあります。そこで、グノーシス主義の基本構造を知れば、今日次々と生まれる誤った教えも、その変種に過ぎないことが分かります。カルトも、アンチカルトも、その主張の基本構造を丁寧に解析すれば、結局、どちらも同じように聖書を歪曲する異端であると判明します。

今日の時代ほど、クリスチャンが見えない神ご自身と、聖書の御言葉だけに頼り、神だけに栄光を帰する必要に迫られている時はありません。そのような歩みを進める信者が一人でも多くなることを願いつつ。



タグ:十字架に戻れ聖霊に導かれるカルト被害者救済活動の危険Dr.LukeとKFCの欺瞞性東洋思想とカルト被害者救済活動グノーシス主義の構造教会成長論の誤り鳴尾教会への村上密牧師の不当介入サンダー・シングの異端性公務員制度の違憲性神戸児童連続殺傷事件A君冤罪説




十字架に戻れ!

聖書によれば、人の罪の問題の解決は、ただキリストの十字架にしかない。裁判によってカルト問題を解決することは不可能であり、人が十字架によらずに人の内面の悪を自ら取り締まろうとすると、必ず恐ろしい結果へ至ることを警告する。
今日のプロテスタントに流行する異端の教えや、クリスチャンを裁判による争いへと導く誤った救済運動に巻き込まれず、健全な信仰を失わないでいるために何が必要なのかを解説。


御霊に導かれて歩む

「御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。」御霊によって歩くために、その妨げとなる肉の欲がキリストと共に十字架で死に渡される必要性。
十字架が、信仰者の中のアダム来のものに対して死という破壊的な働きをもたらすならば、聖霊はキリストからのものを信仰者のうちに建てあげる働きをする。キリストに似た者となるとはどのようなプロセスなのか。御霊の内なる変革の働きに注目する。


今日、聖霊のバプテスマについて間違った理解が広まっている。個人的な名声、魅力、成功など、自分の肉を誇示するために聖霊に満たされる体験を求める人が多い。だが、ゴルゴタとペンテコステは車の両輪のようなものであり、御霊は十字架での肉の死の上にしか働かない。
御霊は十字架と常に一つとなって信仰者に霊的な働きを及ぼす。信仰者は自分の中のどれほどのものが地的なものであるか知らない。生まれ持った能力やプライドが枯渇して死に行く中で、御霊が少しずつ神からのものをその人の中に建て上げて行く。


キリスト教界に流入する異端の特徴 ~異端の教えは死と黄泉を愛する~

異端の教えは弱肉強食でいけにえを奨励し、子供たちに最も大きな犠牲を強いる。リンデの死は防ぎ得なかったのか。子供の死を美化する危険な宗教イデオロギーについて検証する。
異端の思想は人を生から引き離し、死と黄泉の世界に誘う。
セカンド・チャンスを教える教会の牧師は死後のユートピアとしてのひょうたん島の作者でもあった!


カルト被害者救済活動はなぜ危険なのか ~クリスチャンを聖書から離し闘争へ誘う運動

カルト被害者救済活動を率いる村上密牧師の”正義”はなぜどのように暴走して行ったのか。AG教団による恫喝訴訟や、AG信徒による他教会の乗っ取り事件等、”正義”を掲げるこの運動の深い闇を考察。
「キリスト教界からエクソダスせよ!」と呼びかけ、教界の腐敗を糾弾していたDr.Luke率いるKFC集会はどのようにキリスト教界と一体化して行ったのか。AG教団とのつながりや、カルト被害者救済活動の暴走との類似性を検証。


”カルト化したキリスト教界で傷ついた被害者信徒を救済する”という大義名分で、統一教会出身の牧師が始めたカルト被害者救済活動。なぜこの活動は聖書に反して危険なのか。その本質と運動の暴走の過程に言及。
聖書が提唱する救いは信仰に基づく内面からの変革である。もしクリスチャンが裁判や罰則などの外的強制力によって他者の内面の悪を取り締まるならば、必ず現代の恐ろしい異端審問が生まれることを指摘。


外圧による脅威を訴え、力による解決を促す集団的自衛権と、異端の流入の脅威を訴えることにより、裁判による解決を促すカルト監視機構の類似性。
この世には「救済者になりたがる人々」が存在する―。共に統一教会と深い関わりのある安倍首相とAG教団の村上密牧師の”救済”活動の根本に共通する問題を考える。

カルト被害者救済活動を通して「救済者」になろうとする牧師にはどんな心理があるのか。甲師の物語に託して考えてみた。4話完結。
聖書は裁きは神の領域であると教えている。なのに”私怨”に基づく”私刑”を推進した被害者救済活動の誤りを警告。


カルト監視機構には、全ての宗教に君臨し、上から取締まることによって、人が己を神以上の存在とし、神に代わって人の内心を取り締まろうとする反キリストの欲望がある。
村上密牧師による弱者救済活動は、実際は、常に強者の目線に立って、弱者の内心の自由を抑圧して行なわれたのであり、信者に対する同氏の自己流の「異端審問」に過ぎなかった。


村上密牧師はかつてカルト監視機構の設立を提唱していたが、これが反対を受けると、代わりにインターネットを活用して支持者たちによる非合法な信者への監視や断罪、私刑活動を積極的に煽った。
村上密牧師と同氏の活動を支持する杉本徳久氏が彼らの活動を支持しないクリスチャンに対してネットの暗闇でどのような妨害活動を行って来たか、彼らがネットで行ったネガキャンを支援した工作員らの履歴を公開。


村上密牧師の活動を支持する杉本徳久氏のブログで信者をバッシングする読者らの多くは、信者ではなかった。不信者を利用して信者を恫喝・弾圧するカルト被害者救済活動の悪質な手口を解説。
クリスチャンを名乗りながらも、聖書の御言葉ではなくこの世の常識に立脚して、キリスト教の不祥事を暴くことにより、この世をキリスト教の「被害者」とする。村上密氏の活動の異常さを「神社への油まき事件」を通して解説。


聖書の御言葉ではなくこの世の常識の観点から、キリスト教の不祥事を暴くことにより、キリスト教そのものを疑わしく危険なものと見せかけ、クリスチャンを断罪する。キリスト教を内側から破壊するカルト被害者救済活動の危険性を解説。
杉本徳久氏はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団で信仰生活に挫折し他宗派に去った過去を持つ。社会的弱者を対象に始まったペンテコステ運動は初めから被害者意識と密接な関係にあるが、それがキリスト教界につまずいた心の傷と結びつく時、悪霊の要塞となる危険な活動を生む。


アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による鳴尾教会への不当な迫害

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師と津村昭二郎牧師が約十四年前、鳴尾教会人事に関する手続きを協力して私物化して行った様子を一連の記事を通して振り返る。
2001-2002年にかけて鳴尾教会に持ち上がった騒動は何が原因であったのか。なぜ同教会はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から離脱を決定したのか。当時の教会を知る者が証言する。


2001年、鳴尾教会の後継者として教団から派遣された伝道師が同教会を去ることを決めた。その背後には村上密氏とその義理の父である津村氏の密室での不当な圧力があった。伝道師の書簡から当時を振り返る。
鳴尾教会に派遣された伝道師夫妻を当時の教会の主監者であった津村昭二郎氏(村上密氏の義理の父)がどれほど過酷に扱い、どのような嫌疑をかけて追い詰めたか、津村氏と伝道師の内心を書簡から振り返る。


津村牧師と村上密牧師の誤った対応が原因となり、鳴尾教会には混乱が引き起こされた。にも関わらず、同氏らと教団側は真相をごまかすためにデマを流布し、鳴尾教会の教団離脱を阻止すべくスラップ訴訟も含め全力で圧力を加えた。


教会成長論というむさぼりの教え、肉を喜ばせる個人預言の危険

キリスト者には、十字架の贖いを信じたその瞬間から、聖霊を通してキリストが住まわれるので、あちらこちらの指導者に助けを求めて奔走する必要はない。だが、内なる聖霊に耳を傾けず、自己の外の現象を通して神との一体感を味わおうと個人預言を求める結果何が起きるのか、その危険性を解説。
今日、ペンテコステ運動の霊的ブームに乗って、多数の集会で”自称預言者”たちが「神の器」として講壇に立ち、「主の御告げ」と称して、会衆に「個人預言」を語っている。だが、神がそのように安っぽく人に語られることはない。預言を大量生産し、ビジネス・チャンスとする活動の虚偽性を警告。


キリストは十字架の贖いにより信仰者に罪からの解放をもたらした。真理のあるところには自由がある。ところが、教会が正しい教えから逸れる時、神がキリスト者に与えたもうた自由と解放を、人が自分勝手な思惑によって、再び奴隷のくびきに取り替える。大宣教命令を口実に世界征服を目指す教会成長論、弟子訓練プログラムという負いきれないくびきの危険性を警告。
聖書は地上の富を求めることが、あらゆる悪の根であると教える。教会が福音伝道を口実に地上的権勢の拡大を追い求めるとき、株式会社のように信徒を教会の野望達成の手段として使い尽くし、牧師が現人神となって人間の権威を高め、神に逆らう組織を建て上げることになる。その恐ろしい危険性を『教会成長の勘所』の随所に見ることができる。


「…あなたがたは地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。」と聖書が教えているにも関わらず、教会成長論の教科書的な著書である『教会成長の勘所』は、牧師夫妻を神と人との唯一の仲保者キリストにとって代わる現人神の地位へ押し上げ、牧師を霊の父、牧師夫人を霊の母として敬うように信徒に教える。
『教会成長の勘所』を著した手束正昭氏は、教会には「父性的な要素」だけでなく、「母性的な(愛と赦し」)の要素」の回復が必要であると主張し、聖霊を女性人格としてとらえ、「父なる神」、「母なる聖霊」、「子なるキリスト」という完全に異端の三位一体論を提唱。牧師夫妻と信徒との関係もそれに基づいて構築されるべきと主張した。


『教会成長の勘所』を著した手束正昭氏は、日本のペンテコステ・カリスマ運動の代表的指導者であるが、三位一体を「父・母・子」という家族モデルとして解釈するという異端思想に加えて、異端とされたネストリウス派に酷似する独自の「養子論的キリスト論」を掲げ、御子キリストの神性を否定した。このペンテコステ理論の異端性を解説。
ペンテコステ理念の危険性は聖霊をキリストよりも上位に置き、御子の地位を貶めることにある。聖霊を母なる存在とし、御子キリストは生まれながらに神の独り子ではなく、聖霊の注ぎを受けたことによって神の御子にまで引き上げられたと主張する手束正昭氏の「養子論的キリスト論」は、信じる者をみなし子とし、父なる神の子供としての御国の正統な後継者の地位を失わせる。


キリスト者は、御子キリストの贖いを信じることにより、神に向かって「アバ、父よ」と呼びかける特権を与えられた。しかし、手束正昭氏の「養子論的キリスト論」は、神の独り子の地位を否定することにより、信じる者を養子という惨めな身分に転落させ、神の子としての絶大な特権を失わせ、救いも恵みも受ける資格を失わせる。
神は人を通して地を治めることを計画したが、アダムが罪を犯したので、旧創造はすべて滅びに定められた。ところが、全ての異端思想は、旧創造の滅びを否定して、十字架抜きに「生まれながらの人が神に到達できる」と神秘思想を説く。ペンテコステ理論も、聖霊の働きを誇張し、キリストを貶め、十字架を過小評価することで旧創造と新創造の区別を失わせる。


ペンテコステ運動、カルト被害者救済活動、グノーシス主義の一体性

なぜ村上密牧師や杉本徳久氏の主導するカルト被害者救済活動は信者よりも不信者ばかりを引きつけるのか。プロテスタントの「排他性」や「自己愛の病理」を主張して信者を断罪する人々は、聖書の御言葉の二分性につまづき、己を疎外したキリストの福音そのものを敵として告発している。
Dr.Lukeは、信者が肉により頼んで己を義とし、神に到達しようとする努力を古き人に対する無価値な「自己愛」として退けたが、御言葉への従順を軽んじ、御言葉による切り分けを曖昧にし、感覚的陶酔を重んじるペンテコステ運動の偽りに深く欺かれていた。


キリスト教界につまづいた自分の心の傷を他者に転嫁し、他者に上から目線で手を差し伸べ、救済することで自己救済をはかろうとする弱者救済活動は、神の知恵である御言葉に逆らい、自ら救いから疎外されて行く人類の高慢さと自己愛とナルシシズムへの道である。
杉本徳久氏はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団で信仰生活に挫折し他宗派に去った過去を持つ。社会的弱者を対象に始まったペンテコステ運動は初めから被害者意識と密接な関係にあるが、それがキリスト教界につまずいた心の傷と結びつく時、悪霊の要塞となる危険な活動を生む。


聖書の御言葉につまづく人々は、「キリスト教には母性的な受容の回復が必要」と主張して、東洋的な母性崇拝を持ち込み、御言葉の切り分けを曖昧にし、神と人との主客の区別を否定する。ペンテコステ運動の影響を受けたKFCのDr.Lukeはついに己を神と宣言するまでに至った。
キリスト教徒を名乗る多くの者たちが、信者の家庭集会を基礎にリバイバルを招致できると考えているが、それは異端である。聖書は、神の国が目に見えるものでないと同時に、信者の肉の家族がそのまま教会ではなく、神に従うためには、生まれながらの肉の家族に対しても十字架の死が必要であると教える。


異端思想はみな神の国を目に見える形で実現できると主張するが、それには共通する家族モデルがある。それは、宗教指導者夫妻を「霊の父母」とし、信者を「霊の子」とみなし、指導者夫妻に帰依する信者の家庭を増やすことで、全人類を「一つの霊の家族」に統合しようとする「全人類一家族理想」である。
ペンテコステ・カリスマ運動は、聖霊を「母なる霊」とみなす異端的三位一体論を基礎に、牧師夫妻を「霊の父母」、信者を「子」とする、統一教会と変わらない家族モデルを提唱した。また、キリスト教に「母性原理を補うべき」と主張し、御言葉の切り分けを曖昧にしたが、そうした試みは、東洋思想の母性崇拝に起源を持つ。


カリスマ運動の主張する「父・母・子」の異端的三位一体論の起源は、グノーシス主義にある。グノーシス神を通して、東洋思想、フェミニズム神学、カリスマ運動の主張する「キリスト教への母性の回復」が、神に反逆した人類の名誉回復を目指す思想であることを見る。
キリスト教の二元論に反発し、御言葉による分割発生以前の原初的な未分化の状態へ回帰することを「救い」とと主張するグノーシス主義を基礎とするカリスマ運動は、キリスト教で「抑圧された母性原理の回復」を目指すが、彼らが実際に回復しようと目指しているのは、肉欲の解放である。


国家神道の基本構造は、天皇皇后を「霊の父母」とし国民がその「赤子」として世界を「一つの家」にまとめようという地上天国の理想であり、これは統一教会の「全人類一家族理想」や、ペンテコステ・カリスマ運動の目指す教会成長の結果としてのリバイバルと同じ異端的な「父・母・子」の三位一体論に基づく世界救済思想であることが分かる。
国家神道は天照大神という東洋思想の女神を掲げ、「東洋思想において神と人とは和合しており、西洋キリスト教のような神と人との断絶はない」と主張した。そこから、国家神道はあらゆる聖書的な二元論を廃した全世界の一元化としての「和の大精神」を理想として唱える。しかし、このような全人類の一致運動は必ず暴力的な異論の排斥装置を生む。


Dr.LukeのKingdom fellowship church(KFC)の危険~ペンテコステ運動の自己栄化の霊~

サンダー・シングやペンテコステ運動の異端性を御言葉に照らし合わせて検証せず無批判に取り入れたDr.Lukeはついに人間の原罪を否定してキリストの十字架を退け、自己を神であると宣言するに至った。
キリストの御霊はイエスを証し、イエスに栄光を帰するが、反キリストの霊は人間を高慢に陥れる。正体不明の霊と交わり、無意味な音声を「神のことば」と称し、自己を神格化するKFCは、悪魔に由来する高慢の霊に憑りつかれている。


意味もなく解き明かしもできない偽物の異言に没頭し、自分たちは「神のことば」を預かるから、「神である」と宣言するDr.LukeとKFC。だが、聖書では、己を神と称した者は例外なく悲惨な最期を遂げた。
人間が生まれ持った魂の力を啓発することで、神との合一に達しうるという神秘主義思想は主に東洋諸国で発展して来た。ペンテコステ運動は、東洋神秘主義思想が聖霊に偽装し、キリスト教と合体して出来た混合の教えである。


悪霊は魂の領域に偽物の霊的体験を作り出して信者を欺く。人は「感覚を通して神を味わう」ことが可能だと主張するサンダー・シングの教えを受け入れたDr.Lukeは自らの感覚の虜となる。
自己を神とし、キリスト教界を見下して勝ち誇るKFCは、一部の宗教的エリートだけが「隠された教え」にあずかり、他の信者の及ばない高みに到達するというグノーシス主義の「エリートの福音」に貫かれている。


グノーシス主義思想の特徴 ~偽りの弱者救済の思想 怨念に基づく神と聖書への復讐の哲学~

太古から存在するグノーシス主義は聖書を歪曲する全ての異端の原型である。創世記において蛇は善悪の知識を得れば神のようになれると言って人を誘惑した(創世記3:5)が、異端の教えは今日も同様、アダム(生まれながらの人)の罪による堕落を否定して、人の自己には生まれながらに「聖なる要素」が宿っているとして、人が「覚醒」し奥義的な知識を手に入れ、「本来的自己」に回帰すれば、神にまで到達できると誘惑し、人を高慢にして神に対する反逆へと駆り立てる。
正常な福音は人に罪を自覚させ、悔い改めて神と和解するよう呼びかけるが、異端の教えは、人の罪を大目に見て、罪人を悔い改めなしに無罪放免するよう求める。グノーシス主義に基づく『ユダの福音書』では、キリストを裏切ったユダが最高の弟子とされ、グノーシス主義はこのように罪人を高く掲げ、人を罪に定めた創造主を理不尽な悪神とする。しかし、人間に甘い顔をしたグノーシス主義の世界観は悲観的で、その教えにおける救済は、肉体からの離脱、つまり死である。


グノーシス主義は聖書を換骨奪胎し、捏造して作られた創作神話であり、人類の罪を否定し、神に背いて堕落した人類を神よりも高く掲げる。この教えでは、創造主はデーミウルゴスやヤルダバオート、サクラ(愚か者)などと呼ばれて狭量で悪意に満ちた神として貶められ、人はこの世で横暴な神の支配下で肉体の牢獄の中に閉じ込められている被害者とされる。その教えはカインやソドムとゴモラの住人など、神に反逆した罪人を誉めたたえ、創造主よりも上位に位置する真の「至高者」(「父」、「母」、「子」の”三位一体”から構成される)があるとして、イエスも至高者から遣わされた使者・教師であると教え、神の独り子であることを否定する。
聖書は最初の人アダムが堕落したことにより、全人類に罪が入り込み、人は自力では救済に至れなくなったと教える。アダムという名が「塵」を意味する「アダマ」を語源とするように、アダムに属する生まれながらの人類は、御子キリストの十字架によらずには、罪のうちに滅び、塵に帰る他ない(創世記3:19)。ところが、グノーシス主義の教えはアダムの堕落を認めず、むしろアダムこそ御国にふさわしい住人だと教える。彼らはアダムの語源をギリシア語のアダマス(栄えある者)であるとし、アダムは「真の至高者」と本来的なつながりを持つ(悪神である)創造主に勝る者であるとして誉め称え、神と人との関係を覆そうと試みる。


聖書の御言葉は、天と地にあるすべてのものがキリストにあって一つにされることが神のご計画であるとしているが、神の国の完全な実現は来るべき時代のことであり、そこに十字架を経由しない生まれながらの堕落した被造物は何一つ入れない。聖書の御言葉は「諸刃の剣」よりも鋭く、神の霊に属するものと、そうでないものとを区別する。ところが、グノーシス主義は、「分割」や「切断」を「死」として否定的に捉え、天的・地的なものの切り分けを否定する。そしてイエスは人を分裂前の状態に戻すために「肉において現われ出た」と教え、イエスの隠された教えに与り、この世を捨てて弟子となることにより、人が本来的自己によって支配する状態を「御国」であるとして、地上天国を提唱する。
学者たちの指摘によれば、グノーシス主義とは特定の時代や地域にとらわれることなく、社会が矛盾と混乱に満ちて、多くの人々がこの世で理不尽や疎外感を感じ、現存社会のしがらみからの逃避を切望するような時代と地域には、いつどこででも成立しうる思想である。それは人がこの世で神を越える「至高者」の存在を考え出し、それと自己を同一視することによって、自らを疎外した神を否定して、復讐を果たそうという思想である。クリスチャンとてこの反逆の思想と無縁ではない。苦しみに直面する時、それを神の御旨に沿って与えられた試練としてへりくだり、神の解決を待ち望むのか、それとも性急に自己を義として、御旨に立ち向かうのか。後者の選択がグノーシス主義につながる。


「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それは彼には愚かなことだからです。(Ⅰコリ2:14)と聖書は言う。生まれながらの人間は人を罪に定めるキリストの十字架を受け入れられず、それゆえ聖徒らをも憎み、敵対する。皇帝ネロが「人類に対する侮蔑、敵視」の罪でクリスチャンを告発したように、またグノーシスの教えが、アダム、カイン、イスカリオテのユダなどの罪人を神以上に高く掲げたように、今日、キリスト教界でも「弱者に優しい甘えの福音」が蔓延し、罪人に対する愛や憐みばかりが誇張される。このように神の義を退けてまで人の自己を高く掲げる偽りの「弱者救済の福音」はやがて「人類の公共の福祉」の名目で反キリストの思想へ発展する。
初代教会時代、クリスチャンとグノーシス主義者はともにこの世を超越した神の国の霊的な統治を追い求めていたが、グノーシス主義者は神の国に至るために人の生まれながらの自己がキリストと共なる十字架において死に渡される必要を認めなかった。グノーシス主義者は、十字架をアダムに対する神の刑罰とは認めず、復活は死を経ずとも本来的自己に含まれているとし、キリストの十字架の死を歪曲し、人を喜ばせる知識や解放に変えてしまった。グノーシス主義者は「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない。」(使徒14:22)、「だれでもわたし(イエス)について来たいと思うなら、日々自分の十字架を負」う必要があることを否定し、クリスチャンの殉教をも無知で愚かな犠牲だとあざ笑った。


聖書は生まれながらの人間は全て堕落しており、十字架におけるキリストの贖いなしにはいかなる希望もないと告げている。ところが、今日、キリスト教界では、生まれながらの人間の罪や欠点を大目に見、社会的弱者を優しく受容・介抱することが教会の焦眉の課題とされる一方、キリストの十字架におけるアダムの死の必要性は忘れられている。このような弱者に都合良い歪曲された福音の只中から聖徒らを迫害するカルト被害者救済活動も登場して来た。この種の弱者解放の福音の危険性は、かつてキリスト教界に起きた「解放神学」の失敗を通しても理解できる。「神の国は、社会の反逆児、見捨てられた人々、弱者のものであって、自称"義人"たちのものではない」と主張した解放神学は、神に反逆した罪人らを神よりも高く掲げたグノーシス主義者と基本的に同じ構造を持つ。
解放神学は、第二次世界大戦後に著しい経済成長を遂げた欧米の豊かさと、第三世界の貧困との対比が、無視できないほどに明らかになった時代に、豊かさから取り残され、生長から疎外された地域や国々の「社会的弱者」の救済を掲げて登場して来た。しかし、それは社会的弱者の救済に役立たない既存のキリスト教を否定することで、キリスト教を内側から破壊する宗教に偽装した政治運動であったばかりか、神と社会から疎外された人々が怨念と憤りによって、自分を疎外した者との関係を覆し、反逆と復讐を企てる理論でもあった。解放神学はその構造と成立過程を見ると、マルクス主義を換骨奪胎して作られたことが明らかなだけでなく、グノーシス主義とも基本的に同じ構造を持ち、弱者救済の美名とは裏腹に、初めから根本的に聖書の理念に敵対する秩序転覆の理論であった。


聖書が、生まれながらの人間はすべて堕落した罪人であり、救われるためにキリストの十字架の贖いを受けなければならないとするのに対し、解放神学者らは、(十字架における)神と人との断絶を否定し、「イエスは虐げられた者、貧しき者たちの神であり、富める者や、社会の支配者たちの神ではない」と主張して、貧しき者とイエスを同一視して、抑圧された弱者に「神」を見いだそうとした。また、弱者に奉仕しない既存のキリスト教を"異端"として攻撃した。彼らの目指す「救済」とは貧しい人々を決起させて社会全体の秩序を覆し強者に復讐を果たすことのみならず、人間の欲望をあらゆる制約から解き放つことにあった。すなわち、生まれながらの肉を高く掲げ、肉を罪に定める十字架を憎んでいたゆえに、解放神学者は伝統的なキリスト教を”禁欲主義”として激しく非難し、そこからの解放を”救済”としたのである。
異端の教えは、抑圧された社会的弱者を美化し、弱者の中に「神」を見い出すことにより、生まれながらの人間を神以上に高く掲げ、人の罪を否定して十字架を介さず人間を直接救おうと試みる。今日のキリスト教にもこの偽りの「弱者救済の福音」はホームレス伝道のような形で入り込んでいる。ヒューマニズムに基づくこの運動の根底にあるのは、神を見いだせない絶望、この世の不条理に対する神への恨みである。既存のキリスト教に絶望し、信仰を持たずとも「イエス・キリストは貧しい人々に偏在している」と主張してカルカッタで弱者救済に励んだマザー・テレサ、釜ヶ崎のホームレスの悲惨な現実を見て神に絶望しホームレス救済に励んだ奥田知志牧師(SEALDs創設者の父)の心には、共に内住のキリストを見いだせない絶望と、それゆえ信仰抜きに人類が直接人類を救済しようとの願望があった。


サンダー・シングの教えにおけるグノーシス主義的な聖書歪曲

サンダー・シングの教えをあたかもキリスト教であるがごとく交わりの中に広めようとしたAG教団の信徒がいたが、私はこの教えがいかに反聖書的で、危険なものであるかを指摘した。サンダー・シングの教えは人の耳には心地よいが、罪人に甘く神の裁きと地獄の滅びを否定する点で、ドストエフスキーの描いた大審問官と同様に、広い道を通って滅びゆく大多数の人々の"救済"のために捏造された偽りの福音である。「キリストは全ての被造物の中に現臨する」として十字架の切り分けを否定するこの教えを受け入れれば、クリスチャンは永遠の命を失う。
異端の教えは死後の世界や死者の霊に特別な愛着を示す。サンダー・シングの著書『聖なる導き インド永遠の書』も半分ほどが死者の霊との交流に割かれている。だが聖書は信仰者が死者の霊にお伺いを立てることを厳しく戒めている。サンダー・シングは「愛である神は誰一人地獄に落とし給わない。」、「地獄にさえ救いはある」と、罪人への神の愛だけを誇張して、神の贖いを受け入れない罪人への裁きと滅びを否定する。このように弱者のために捏造された偽りの福音は、人の自己を肥大化させ、神を恐れ御言葉に服することを人に忘れさせる。


聖書は「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(ヘブル11:3) と、御言葉(なるイエス)こそすべてのものの源であることを述べているが、異端の教えの秩序は聖書とはさかさまで、見えないもの(霊的なもの)を見えるもの(肉的なもの)に従わせ、被造物に過ぎない人間が造物主である神を定義し、人が神を己の願望に従わせようとする傲慢なものである。サンダー・シングは、天界も地獄も人間が心で作り出した状態に過ぎないとし、「神」の概念をも、人間の欲望に合わせて都合よく歪曲し、人間を罰したり滅ぼしたりしない、聖書のリアリティからかけ離れた「愛の神」を捏造する。
聖書によれば、アダムの堕落によってすべての人は生まれながらに神の怒りの子となった。ところが、サンダー・シングは、「悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではない」と、人の原罪を否定し、「「悪」がサタンの属性であるというのも間違いである。サタンもまた無垢な状態に造られた」と、サタンの堕落が回復不可能であることも認めない。聖書は「悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれ」、そこで「彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」(黙示20:10)と予告するが、サンダー・シングは善悪の絶対性を否定して、あらゆる「悪は永遠ではない」と、悪もやがて役目を終えて善に還元されるとの弁証法的な詭弁を展開。聖書に逆らって悪魔と罪人を名誉回復させようとする。


グノーシス主義は人の原罪を認めず、生まれながらの人の自己のうちに何らかの「神的要素」が宿っており、これに覚醒することで、人は(キリストの十字架を介さずとも、自力で)神に到達できると教える。これは神と人とが本来的に同一であるとする神秘主義思想である。サンダー・シングも「人の性質の中には、決して罪に傾かない聖なる火花、聖なる要素が存在する。」と、生まれながらの人の自己に「神的要素」が宿っていると主張し、この神的要素に目覚めることによって、人は神に回帰できるとする。「いつかは自分(人)が、似せて造られた神に戻る…。それが人間の究極の目標なのだ。」と、人が本来的自己に回帰して神と融合することこそ人類の究極目標であるとする。だが、御言葉への従順なくして神に等しくなろうとすることは、創世記で蛇が人に与えたのと同じ神に対する反逆への誘惑である。
グノーシス主義者は、アダムは原初から神に等しかったと主張するが、聖書によれば、アダムは神に似せて創造されたが、神ではなかった。さらに、アダムには霊があったが、それは神の非受造の命ではなく、それゆえアダムの内に神が住んでおられたわけでもなかった。その後、アダムの堕落により、旧創造全体が滅びに定められて回復不可能になり、第二のアダムであるキリストの十字架を介さずには、誰も救い(新創造)に到達することはできなくなったが、キリストに属する新創造の地位はアダムとは比較にならないほど高く、キリストが内に住んで下さり、復活の命が賜物として与えられ、神の子供として御国の後継者の地位が与えられている。しかし、グノーシス主義者は旧創造のアダムの命を刺激して、生まれながらの自己に回帰することが神に至る道だと教える。十字架を経ないこの教えは人の魂の命を刺激し自己の危険な肥大化をもたらす。


罪のゆえに呪われて堕落し、滅びに定められた旧創造はサタンの作業場である。生まれながらの人は全て悪魔の支配下で死の恐怖の虜とされている。そこで、キリストの復活の命の現われほど、悪魔と暗闇の王国に対して、決定的な敗北を突きつける事実はない。それは復活の命の現われは、御子が十字架で取られた勝利――「死は勝利に飲まれた」(Ⅰコリント15:54)――を完膚なきまでに証明するからであり、復活の命(新創造)が現われるところには、旧創造は存在しえず、御子の揺るぎない統治が確立されて、サタンの支配が追放されるからである。そこで、サタンは偽りの教義を用いて、旧創造に対する神の刑罰を否定し、「神の愛」を誇張することによって、神は愛だから罪人を地獄に落としたりはなさらないと、生まれながらの人(アダム―旧創造)を弁護する。それは、アダムの命がキリストと共に真に十字架で死に渡されたなら、復活が生じることをサタンが知っているためである。
聖書は、神は愛であると同時に、大いなる「さばきの主」(イザヤ33:22)(ヤコブ5:9)であると教える。神の救いは恩寵であり、旧創造はすべて神の御前に罪に定められ、いかなる努力によっても自力では救われない。死に至るまで従順であった御子のゆえに、信仰者は御父に子として受け入れられるのである。さらに、子である以上、父なる神は愛する子を叱ったり、懲らしめたりすると聖書は言う。ところが、サンダー・シングは、「『神は誰をも罰したりはなさらない。誰をも地獄に落とされたりはなさらない。そのようなことは、キリストが教えられ、十字架上での犠牲によって表された神の愛とは相容れぬものである。」と、人間にとって都合の良い母性的な「愛なる神」を提唱し、神が裁き主であることを否定する。しかし、もしも神の刑罰がないならば、救いは恩寵ではないことになり、子として訓練や懲らしめを受けないなら、それは子でなく私生児なのである。


聖書は、「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(ヘブル11:3)、「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く」(Ⅱコリント4:18)と、現存の目に見える物質世界が滅びゆく有限なもので、永遠に至るまことのリアリティは神の霊に属するものだけであることを示す。旧創造は新創造と絶対に混じり合うことはない。ところが、サンダー・シングは、「ただ一つの生命の源――無限かつ全能の生命――がある。その創造の力が、生きとし生けるものすべてに生命を与えたのである。全被造物はその中に生き、未来永劫にわたりその中に留まり続ける。」と、アダムの命と神の非受造の命の区別を否定し、目に見えるものの永遠性を主張する。その結果、人間は死によっても滅びないと主張しながらも、逆説的に人を死者の霊との交流へ誘う。また、「神は全被造物の中に現臨する」との汎神論を展開し、「神はどこにも存在するので、天国はすべての場所にある。」と、事実上の地上天国を提唱する。
グノーシス主義の教えは、神と生まれながらの人類とが本来的に同一であるという神秘主義の思想である。そこで、生まれながらの罪人と神を同一視するために、グノーシス主義者はキリストの十字架の意味をも歪曲する。つまり、十字架を全ての旧創造に対する神の刑罰としてとらえず、神が罪人に寄り添い、神が罪人と一体化した根拠とし、十字架を罪人を名誉回復するための喜ばしい甘いグノーシスの物語へと変えてしまう。サンダー・シングも「キリストは、われわれのために罪人となり、罪人の死をお通りになった。」と、キリストは人類への愛ゆえに十字架において自ら罪人に同形化したのだと主張する。こうしてグノーシス主義者は、キリストの十字架における受難を否定し、無実のキリストを十字架につけた人類の罪をも否定して、十字架から人類の罪の贖いとしての側面を抜き取る。そして、十字架で神と罪人とが一体化したという主張を根拠に、原罪も認めず、悔い改めもなしに、生まれながらの人が自己の内に神を見いだすことにより、神に似た聖なる者とされると主張する。このような教えを信じれば、クリスチャンは神の救いを失う。


牧師制度と公務員制度の闇 ~公務員制度はなぜ憲法に反しているのか~

憲法に反して成立した公務員制度と、聖書に反して成立した牧師制度はとてもよく似ている――最高法規へのクーデターの観点から両制度の弊害を論じる。
国家公務員法はなぜ憲法に違反しているのか。官僚制度の起源はどこにあるのか。今日の誤ったエリート制度と、巨大なクーデター集団について考える。


人は外側から矯正によって変えうるか ~神戸児童連続殺傷事件 少年A君”冤罪”説を考える~

酒鬼薔薇聖斗は少年Aではない――かねてから根強い少年A君冤罪説を再考、この事件が少年法改正と厳罰化を導き出すための仕組まれた国家犯罪であった可能性を考える。
酒鬼薔薇聖斗の書いたと言われる「懲役13年」を通して、人間の悪を矯正するためには、カルト監視機構や法律の厳罰化という”方策”(外側からの改革)は全く役に立たず、内側からの改革しか道はないことを訴える。


エクレシアに連なる信者たちのための祈り

主イエス・キリストの御名により、主と共に十字架で自己を焼き尽くされ、旧き人に死んで、真に神に対して生きる貞潔な信者の出現を心から願います。また、神の御心にかなう方法でそうした信者が集められ、キリストの花嫁たる見えない御身体の建造が行われますように願います。

試練の中で、御霊の知恵により、命の書に名を記された信者一人一人が、暗闇の軍勢のしかける全ての策略を見抜き、御言葉の剣によってそれに勇敢に立ち向かい、撃退し、復活の証人として、命の限り、その人生において御言葉に定められた主の恵みを実体化して存分に味わい、神を賛美し、神に栄光を帰し、来るべき日に、主からの褒賞にあずかることができますように願います。

私たちの働きは、自分自身のためのものではなく、ただ神が栄光を受けられるためです。
御名によって、御名のために始められた働きに、主が内なる証印を押して下さり、また、その貫徹のために、終わりまで必要な助けを与えて下さり、私たちのあらゆる弱さと不完全さを常に主の偉大な強さによって覆って下さることを求めます。

この暗闇の時代にあって、神の軍隊が、強められて力強く立たされることが必要です。御名によって呼ばれる民が、御名の栄光を持ち運ぶ器とならなければなりません。キリストと信者との結合が、この地上にあって、より強く、より完全なものとされ、御名によって与えられた権威の偉大さを、信者一人一人が生きて明確に知り、全ての必要において的確に行使する術を学びますように。
信じる者の一人一人を、キリストの御丈まで、豊かに成長させて下さい。