「イエスは…言われた『人に惑わされないように気をつけなさい。
多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう』」(マタイ24:4)



「偽キリスト」

現代における背教:

「人が神になる」という偽りの教え

---ペンテコステ・カリスマ運動の場合---


第一部 (前半)

1.  人が神になるための隠された啓示
2.  人が神になる(神−人、人−I AM)
3.  蛇とまむしの子らは音もなく近づく
4.  原初、アダムは神であった
5.  言葉は肉となり人の内に住んだ
6.  唯一の神でなく…
7.  肉なる小さな神々
8.  神の栄光を盗む者(人がメシアとなり、キリストとなる)


後半(未訳)


(注意書き: これはブログ記事にも掲載した反キリストを告発するビデオ「偽キリスト」(前編)からの翻訳です。※初めは前編と後編の二つに分かれていましたが、今、非常に多くの続編が出ているようです。「偽の油注ぎ」というタイトルのものもあります。

翻訳発表当時、このビデオの内容そのものの真偽が疑わしいのではないかという声を寄せる方もいましたが、翻訳だけでなく、ビデオの映像をも合わせて詳細にご覧いただければ、発言者本人の映像と肉声または書籍の出典が克明に記録されておりますので、少なくともこれまで訳出した部分については、発言の真偽(有無)にはほとんど疑いの余地が残されていないと考えます。しかし、最終的な判断はもちろん個々の読者に委ねます。

青字の章立ては訳者が後から付け加えたものです。これを読めば、これらの偽りの教えの持つ構造が、まさにグノーシス主義と同じであり、キリストのよみがえりの命ではなく、アダムの命を栄光化し、肉なる人を高く掲げる(生まれながらの人を神とする)ことを目的とした教えであることがお分かりいただけると思います。

概して、日本人は自分に良さそうなもの・目新しいものにはすぐに飛びつき、物事をセンセーショナルに報道するのは大好きですが、物事を深く徹底的に検証・究明する態度に欠け、物事を曖昧に、はっきりさせず、灰色のまま残しておくのを好む国民性があるように思えてなりません。しかしながら、このような曖昧を好む国民性は、残念ながら、騙す側にとっては、非常に都合の良いものであるということに、私たちは注意する必要があります。

こと福音に関して言えば、真理は一つしかありません。それに対して、クリスチャンに曖昧な態度は許されていません。騙されないためには、聖書に照らし合わせて、物事を自らきちんと検証し、真理を厳しく峻別する目を持つこと(=目を覚ましておくこと)は重要です。その意味で、外国のクリスチャンの先人たちが残してくれた記録は、私たち日本人が自分で物事を考える上で、一つの有力な手がかりになってくれると思います。

訳出不能な部分は記号[…]で省略しました。青字の文章は訳者によるものですが、その他の全ての部分(ナレーション、聖句、人々の発言、著書の引用)はビデオからの翻訳です。 現時点で、英語のビデオの所在の有無を知りませんが、ご存知の方はご一報いただければ幸いです。その他、お気づきの点がございましたら、お気軽にどうぞ。)




本文 (前半)



「イエスは…言われた『人に惑わされないように気をつけなさい
多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう』」(マタイ24:4)

「…だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、『見よ、あそこにいる』と言っても、それを信じるな。
にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、しるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。
だから、気をつけていなさい。いっさいの事を、あなたがたに前もって言っておく。」(マルコ13:21-23)

「ただ恐れるのは、エバがへびの悪巧みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。というのは、もしある人がきて、わたしたちが宣べ伝えもしなかったような異なるイエスを宣べ伝え、あるいは、あなたがたが受けたことのない違った霊を受け、あるいは受けいれたことのない違った福音を聞く場合に、あなたがたはよくもそれを忍んでいる」(Uコリント11:4)



1.人が神になるための隠された啓示


「覚えていますか、蛇はエバを誘惑して言ったのです、『その木の実を食べるや否や、あなたは神のようになる』と」
(ビリー・ブリーム)

人が神のようになる、そんな誘惑が現代にもあるのでしょうか?

もしも可能だとすれば、どうやってそんなことが起きるのでしょうか?

「私は何としても神から答えをいただこうとしました。すると神は言われたのです。
あなたは、自分が何者であるか知らない』と」
「私たちは、自分が何者であり、どうふるまうべきか知らなければなりません。この啓示が私たちの中によみがえり、保たれる時にこそ、この終わりの時にあって、神は、私たちを大規模な偉業の達成のために、力強く用いることがおできになるのだと私は信じています」
(ジョイス・マイヤー)


で、私たちは何者なのでしょうか?

「お近くの誰かの方を向いて、おっしゃって下さい、『あなたは自分の隣に座っているのが誰なのか、想像もできないでしょうね』と」
(ポーラ・ホワイト)


何者なのですか?

「もしも私が堕落したら、ではなくて、私が堕落するその時にこそ、私は回復するのです、『回復する』とは、私自身のあるべき姿へ戻るということです。皆さんは、自分が本当は何者なのかという本質から、まだ随分、遠くにいらっしゃるのです!」
(ポーラ・ホワイト)


で、何者なんです?

無限なる秘密の次元があるのをご存知ですか? 私たちがこの秘密を解くことが、私たちが自分は誰であり、誰になるのかを自覚する助けになるのです。神は真実を隠しておられるのです
(ビリー・ジョンソン)


神は真実を隠しておられる? どこかで聞いたような台詞ではありませんか?


「へびは女に言った、『園にあるどの木からもとって食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか』」(創世記3:1)
「『それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです』(創世記3:5)

人が本当は神のように偉大な存在になる方法があるのに、それを、神は人から隠している! サタンは現代にも同じようにささやくのです。禁じられた実を取って食べなさい! そうすれば、あなたは神のようになると! 

私たちはそれを食べるために、そして自分が食べたものになるために、ここへやって来ました
(ヴェロン・アーシュ(マル・エノク))

もしこの実を食べるならば、神のようになる。…それがなぜ問題なのでしょう?
(クレフロ・ダラー、『敬虔さを通して神と対等になること』,2001年1月21日)

神が最も望んでおられることは、…私たちが彼のようになることなのです」
(サンデイ・アデラジャ、『神が世を征服されたのは、私たちのためです!』)


「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」(創世記3:6)

禁じられた実を食べるとは、具体的には、何を意味するのでしょうか? それは隠された知識であり、秘められた啓示、隠された悟りなのです。

「あなたは知識の啓示を受ける用意ができているでしょうか? …あなたは神なのです
(ベニー・ヒン著、『キリストの中における私たちの状態』、tape,No.AO31190-1)


「あなたは自分の本来の姿になるのです。聖書があなたを誰だと言っているか、ご存知ですか? そこではあなたは小さなエロヒム(エホバ)なのです。あなたは小さな神なのです」
(ポーラ・ホワイト)


「すると、ふたりの目が開け…」(創世記3:7)

 啓示を悟った人たちは何と叫んだでしょうか?

私は神なのです!
「神なのです、神なのです! まさに神そのものだと言っているのですよ! 預言者たちが目にした、尽きない火、神なのですよ!」
(ケネス・コープランド)

「神は言われました、『上から生まれた人がサタンに勝利したのだ、多くの兄弟たちの中で最初に生まれた者が彼に勝利したのだ。あなたはその最初に生まれた者と瓜二つなのだよ。』
私は言いました、『主よ!それはまさか私にも同じことができるという意味ではないでしょうね? …彼は言われました、『必ず、もしあなたが神を知っているように、神の言葉を知っているならば、あなたにはそれができるはずだ、なぜなら、あなたは新しく生まれた人間なのだから!』」
(ケネス・コープランド、”Substitutional identification” Kenneth Copeland Ministries, 1989, tape N0.00-0202 side 2.)

「彼は一番最初に、上から生まれた人間なのです! 私はそれを知っています、知っています! 最初に上から生まれた人間が完全に勝利したのです! おお、神よ! 私も彼と同じ、上から生まれた者なのです。おお! 私も、彼と同じように生まれたのです!」
「私はあなたの神なのです」
(ケネス・コープランド)

「今はもう私は自分が誰だか分かっています」(ジョイス・マイヤー)

 
隠された啓示は、彼らに自分が神であることを悟らせたのです。恐るべきことを知らせたのです。



2.人が神になる(神―人、人−I AM)


「言うなれば、私は神人なのです。…私の内的、霊的な人、それは神人なのです。…私は神人なのです」
(ベニー・ヒン、Praise the Lord, IBN 06.02.1990)


「私はこの地上で小さなメシアなのです」
「つまり、私は、ベニー・エホバなのです!」(セミナー「霊の戦い」、1990年5月2日)
私は神です。あなたの癒し主なのです。」(ベニー・ヒン)


  この人、気は確かでしょうか? 聖書はこのようなことを言う人について、何と警告しているでしょう?

「『…あなたは心に高ぶって言う、『わたしは神である、神々の座にすわって、海の中にいる』と。
しかし、あなたは自分を神のように賢いと思っても、人であって、神ではない』」(エゼキエル28:2)

「『あなたは、子に賜ったすべての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから。永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストを知ることであります』(ヨハネ17:2-3)

 神はただお一人しかおられないのです。
 ですが、もしも人が神になれるのだとすれば、人の数だけ、神々が存在することになりますね…? そしてあっちにも、こっちにも「全能の神様」が出現することになるのです。

私は小さな神である。今や私が全能の神にふさわしくふるまうべき時である! 私はこの惑星における小さな神なのだ!」
(クレフロ・ダラー、”Christian Celebrity or Charismatic Gnostic?” Tape No.0418)


「私はもう随分前から神なのです。そしてそこから何が起こるか知っています」
(クレフロ・ダラー)


私の中に神性が完全な形で宿っている。…神は私がキリストの形象となるよう、あらかじめ計画して下さったのだ」
(モリス・セルロ、ビデオ「神の御子の現れ」)


「(私は祈りました)私にあるものを全てあなたに捧げますので、どうぞ、お受け取り下さい。するとその後で、イエスは言われたのです、『それでは、私も、私のある(I am)がままをすべてあなたにあげよう』と」
(ジョイス・マイヤー)

「『私はある』 (”I am” 初めから存在する方)という聖書の主の言葉を読む時、私は微笑んでこう言うのです、『そうだ、私も同じように、ある(I am)のだ』と」
(ケネス・コープランド)

「お隣にいる人を心から歓迎しましょう。そしておっしゃって下さい、『あなたはきっと私がどれほど完全か想像もできないでしょうね』。私はあるという者なのです(I am what I AM.)。
 お隣にいる人に三度目におっしゃって下さい、『わたしはあるという者なのだと』。
 たとえ意気消沈することがあったとしても、私はあるという者なのです。傷つくことがあったとしても、私はあるという者なのです。失業しても、私はあるという者なのです、あるという者なのです」
(ノエル・ジョーンズ)

あなたの霊、それは神です。神なのです! そしてあなたがそれを自覚し始め、それに没頭していくならば、あなたの心にも、理性にも、思いにも、意志にも、感情にも、あなたの未来に関する記憶が蓄えられていくでしょう、そしてあなたが礼拝している主が臨在されるのです、その時、あなたの目が開け、あなたは自分が本当は何者であり、何ができるのかが分かるのです。」
「私は完全なのです。私は完全そのものなのです! 私は理想的に創られているのです。もっと別様にふるまう? 別様に変わる? そんな必要はありません!」
(ポーラ・ホワイト)

「私はよく尋ねられます、病気になったことがあるかと。あなたは私が病気になったのを一度でも見たことがありますか? いいえ! 私は何とかして病気になろうとしたこともありますが、その状態が気に入らなかったのです。痛かったですし、不快な感覚でした。
 ここからが驚きですよ。私は祈りました、『神よ、私は健康に生きられるでしょうか?』
 彼は言われました、『私は生きている。』 『何とおっしゃいましたか、主よ?』
 彼は言われました、『私は健康に生きている。あなたにも見習うように言わなかったか?』 『そうですが、私はそんなことは一度も考えたことがありませんでした。』 彼は言われました、『そこにすべてがある。そうあるべきなのだ』」
(ジェシー・デユプランティス)

「兄弟、ここに私たちが立っている時、あなたはモリス・セルロを見ているのではなく、神を見ているのであり、キリストを見ているのですよ」
(モリス・セルロ、”The End time Manifestation of the Songs of God”, audiotape 1)

私たちはキリストです。ハレルヤ! 私は昨日も今日も変わらないのです」
(ケネス・ヘーゲン)

 
何と眩暈がするような恐るべき冒涜的な言葉の数々でしょうか…。

「父と子と聖霊との間で短い会話がありました、彼らは言ったのです、『人々が私たちと瓜二つになるようにしよう』。
 あなたはどう思われるか分かりませんが、私はこれに感動します! 神と瓜二つなのです! 声に出して言ってみて下さい、私は神と瓜二つなのだと!
 …これをご自分の考えとして述べて下さい。…神が鏡をご覧になる時、彼は私をご覧になるのです!私が鏡を見る時、私は神を見ているのです! おお、ハレルヤ! 時々、人々から尋ねられます、『あなたはまさか自分が小さな神であるかのように思っておられるのではないでしょうね。』 …そうですよ、ありがとう! ハレルヤ! よく正確に理解して下さいましたね。人々は言います、『あなたは自分を何者とお考えなのですか。まさか、キリストだとでも?!』その通りです! 聞いてますか? 私はつぶやきます、どうしてそうでないわけがあるでしょう。だって神が私にまさにそうおっしゃったのですからね!」
(ケイシー・トリートの説教シリーズ『自分を信じる』からの抜粋。デーヴ・ハーシュ、Seduction of Christianity)

私たちは神々です。小さな神なのです。神の名で私は呼ばれます。私は彼と一つなのです。私は彼との契約の中にあるのです、私は小さな神である(I am)のです」
(ポール&ジョン・クラウチ)

 このよう恐るべき考えに陥った人々にはどんな非難も馬耳東風です。

「ああ、どうとでも思いたいように思ってくれて構いませんよ」(ロドニー・ハワード・ブラウン)

ポール・クラウチはケネス・コープランドに向かって言った、「誰かが言いました、私たち信仰の教師たちが、自らを神だと宣言していると。あなたも神。私も神だと…。私たちはこの世界の神であると…。…で、あなたは神なんですか?」
ジョン・クラウチはケネス・コープランドに向かって叫んだ、「ほら、彼は今『そうだ』と答えるぞ。何て愉快な話なんだ」(”Praise the Lord” IBN, 5.02.1986)




3.蛇とまむしの子らは音もなく近づく


「あなたたちは全能なる方の子供なのです。あなたたちの中で神の子は誰ですか(手を上げて下さい)。
 ほら、『私たちは神の子どもだ』と誰かが言ったとしても、問題にはなりませんね。ところが、『私は神だ』と誰かが言うと、問題になるのです。『私は神だ』と誰かが宣言すると必ず問題になるのです。分かりますか? あなたたちは問題に感じるのです。何と恐ろしい話だろうと思うのです。けれどもそれを言ったのは私ではないのです。主がそう言われたのです。」
(クレフロ・ダラー)


 ところで、本当に、主があなたを神だと言われたのですか?


…これを言ったのは誰だったでしょうか。

「へびは女に言った、『…あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となる』」(創世記3:5)

人に自分が神であるかのように教えるのは、神ではなく、サタンなのです。

もしそれに聞き入るなら、いや、その声を耳にしただけでも…、あるいはその姿を見ただけでも…、

(自分を神だと宣言する人々が、シューッとへびのような音を立てたり、舌を出したり、いやらしい笑い声を立てて、笑い転げている映像が映し出されます。)

「へびよ、まむしの子らよ」!(マタイ23:33)

 音もなくやって来て、エバを誘惑したサタンは、イエスの時代には、まむしの子らとして、やもめや、貧しい人たちの家に巧みに入り込み、彼らを虐げ、食い物にしました。
 現代でも、誘惑者たちの使う方法は同じなのです。


「…蛇は敵陣にあまりに静かに入り込むので、神ご自身でさえ、騒ぎやスキャンダルなしにはそれに気づかれないほどだ。何のためか? たとえ数人であっても良いから捕まえて、自分の陣営へ連れ去るためである。…騒ぎを起こさずに敵陣に入り込む術を身につけなさい弱くなったちょうつがいを探しなさい…。
 …神の祝福を味わうとあなたたちの目が開け、あなたたちは神のように、つまり神の子供たちになり、神の一致の聖餐にあずかる者となる。あなたの油注がれたメッセージは必ずや彼女の心を揺り動かすだろう
…信じなさい、妻への愛から、夫は必ず、遅かれ早かれ、禁断の実を口にすることになるのだと…」
(アレクセイ・レジャーエフ著、『つまずきの石』、ドネプロペトロフスク、1997年、pp.52-55。)


 蛇のように、教会や信者の家に入り込むことを奨励しているのです。何と恐ろしい教えでしょうか!


「ただ恐れるのは、エバがへびの悪巧みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。というのは、もしある人がきて、わたしたちが宣べ伝えもしなかったような異なるイエスを宣べ伝え、あるいは、あなたがたが受けたことのない違った霊を受け、あるいは受けいれたことのない違った福音を聞く場合に、あなたがたはよくもそれを忍んでいる」(Uコリント11:4)

 誘惑者サタンは、@聖書の教えとは異なるイエス、A聖書の教えとは異なる霊、B聖書の教えとは異なる福音の三セットを持っています。彼らはこれを知ることが隠された啓示を知ることであり、「目からうろこが落ちて」、真理を悟ることであると言って、人に勧めるのです。

「…私たちの目からうろこが落ちて、教会で(教えられている)イエスは、実際には別様であったことが明らかになるだろう」(アレクセイ・レジャーエフ著、『新世界秩序』)




4.原初、アダムは神であった


神がアダムを創造された理由は、神がご自身を再現されたいと望まれたからなのです。つまり、自分自身を再現されるためなのです。エデンの園で神はそれをなさいました」
(ケネス・コープランド、「アブラハムの信仰に従え(1)」)

アダムはこの世の神であった
(ケネス・ヘーゲン著、『信じる者に伴う権威』、2d ed, Kenneth Hagin Ministries, 1991, 19.)


 何ですって!? それはつまり、原初、アダム(人)は神であったということですか? 聖書は何と言っていますか。


わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にもない」(イザヤ43:10)

 あなたたちが「神」と呼んでいるものは、どうやら、私たちが信じている神とは、全然別なもののようです…。もしもアダムが神だというなら、神が神を創造したという話になりますが、神はお一人なのではありませんか?

…その時、神はエデンの園で、「神」をどのように創造されたのだろうか?

「Uコリント4:4を覚えておられるでしょうか、
(引用:「彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである」)
そこでパウロは、サタンとは、この世の神のことであると言っています。この世の神とは、サタンなのです
(ケネス・ヘーゲン)


 これらの数行に、異端者たちの重要な本音が出ていますので、特別な注意が必要です。アダムが神に似せて造られたことを認めながらも、ケネス・ヘーゲンは、「アダムはこの世の神であった」と言い、次に、「この世の神とはサタンだ」と言っているのです。これはどういう意味でしょうか? そのまま解釈すれば、「アダムはサタンだった(もしくはアダムはサタンに似せて造られた)」ということになりますが、それが彼らの言いたいことなのでしょうか?

 いいえ、そうではありません。これを理解するには、グノーシス主義者たちが「創造主(神)」の概念をどんなに歪めて捉えているかについて注意が必要です。


 異端グノーシス主義の教えにおいては、創造主(デーミウルゴス、ヤルダバオトなどと呼ばれている)は堕落した神、下級の神であったとされています。そこで、この堕落した神は自らの不完全さのゆえに、世界を造りそこなったのだとされているのです。つまり、ヤルダバオトによって造られた世界(被造物)は出来損ないであり、それゆえ、堕落しており、悪が満ちているのだというのです。世が堕落したのは、それを造った創造主の悪のせいだ、ということにされているのです。

 そして、この劣った下級神の上に、堕落を知らないもっと上級の神が存在し、それこそが叡智の神であり、蛇を通して、人間(エバ、アダム)に知恵を与えた者であり、それが真の神だったのだとされるのです。このようにして、グノーシス主義の教えでは、神と悪魔の位置が逆転されてしまうのです。創造主=悪、創造主=この世の神となり、 創造主の上位に位置する神こそ、真の神であったということになるのです。もちろん、このような解釈が聖書に真っ向から反していることは言うまでもありません。

 このようなグノーシス主義の異端的解釈に照らし合わせるならば、上記のケネス・ヘーゲンの発言の背後には、次のような複雑な解釈が潜んでいることが分かるでしょう。

 「聖書においては、創造主は聖なるお方、罪のないお方であり、他方、この世の神とは、サタンだとされている。しかし、我々の解釈によれば、そうではなく、この世を作った神、つまり創造主こそ、劣悪な下級神、サタンと呼ばれるにふさわしい反逆者の神だったのである。そこで、この世の神とは、創造主のことなのである。アダムはもともと、この劣った下級神である創造主の形に似せて造られたという点で、まさにこの世の神であった(すでにこのような論理からしておかしいのですが、それは今は無視しましょう)。だが、アダムは蛇によって高度な知恵を入れ知恵されて、自分を造った創造主が真の神でないことを知り、真の神が誰であるかを悟った。そして、その知恵に目覚めたことにより、真の神性を宿す者となった。それによって、アダムは自分を創造したこの世の神を越えて、真の神と同一化したのである。こうして、アダムは、創造主を越えて、神になった…。」


「彼(アダム)はほとんど『神とそっくりだった』のです。彼は『ほとんど神と同じ』だったのです。彼は神に依存してすらいなかったのです。アダムはあなたが想像できる限り、最高に神に近かったのです。ちょうどイエスと同じように、地上にやって来たのです」
(ケネス・コープランドの発言「アブラハムの信仰に従え(1)」)


 アダムがイエスと同じように天から地上に下って来た? 聖書をちゃんと読んで下さいな?


第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る」(Tコリント15:47)

 アダムは地に属する者であって、天から下った神ではありませんよ!

「私があなたたちに知ってもらいたいのはこのことです。エデンの園でのアダムは肉における神であったということです!」
(ケネス・コープランド)


肉なるアダムに神が宿っていた。これはまさに私たちが今まで論じて来た「セルフ的肉教」の極致ですね!

"はじめにセルフがあった。
 セルフは神ととともにあった。
 セルフは神であった。
 セルフは肉となり、私たちの間に住んだ。  
  ・・・ "(「東洋からの風の便りT Dr.Lukeのコメントから引用)

 で、とどのつまり、あなたたちは、神は人間(アダム)の肉に受肉したとおっしゃりたいのでしょう?
 聖書は何と言っていますか?


「確かに偉大なのは、この信心の奥義である、
キリストは肉において現れ
霊において義とせられ、
御使たちに見られ、
諸国民の間に伝えられ、
世界の中で信じられ、
栄光のうちに天に上げられた」(Tテモテ3:16)

…神が受肉したのは誰の肉体だったのでしょうか?
 アダムの肉体?
 それとも私たちの肉体?
 それとも何かもっと別の肉体…?

 しっかりして下さい! 肉体を取って天からこの地上に来られた神は、ただお一人だけなのです。「天から来た第二の人」(Tコリント15:47参照)、ただイエス・キリストお一人だけなのです。それ以外に、人となられた神は存在しないのです!

「なぜなら、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである。」(Uヨハネ1:7)

 つまり、アダムの肉に神が受肉したのだと言ったり、生まれながらの人間が神と同一だと言っている人たちは、皆、反キリストなのです!
…この大勢の誘惑者、反キリストたちは何者なのか?

 聖書に書いてありますよ、
「彼らはわざわいである」(ユダ1:11)と。






イエスは私たちの霊であり、我々は主の肉である
(サンデイ・アデラジャ、『イエスは悪を破壊するために来られた』)

「イエスは肉を取って来られた神であった。私たちは、彼がこの世であられたのと等しい存在になるだけでなく、より大きなスケールと影響力を持つ存在になるべきなのである。」
(アール・ポルク、The Ultimate Kingdom, 1986, p.121)


「私たちは…唯一の神のほかには神がないことを、知っている。というのは、たとい神々といわれるものが、あるいは天に、あるいは地にあるとしても、…わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。…また、唯一の主イエス・キリストがいますのである」(Tコリント8:4-6)

 繰り返しますが、聖書によれば、神はただお一人だけです…。

上から生まれた人間は一人ひとりが神の化身なのであり、キリスト教とは、奇跡である信仰者は、ナザレのイエスと同じように、(誰もが神の)化身なのである。」
(ケネス・ヘーゲン、”The Incarnation.” The World of Faith. 13.12.1980,14)

 そんな「奇跡」は、決して、キリスト教にはありません…。キリストは私たち信じる者の中に住んで下さいますが、そのことによって、私たち一人ひとりが神の化身になるわけではありません! 信仰者は御霊によって生まれた神の子供たちですが、それによって、私たち自身が神々になるのではありません!

あなたが上から生まれた時、御言葉があなたの中で肉となったのです。…『私にはある』とは言わないで下さい。『私はある、私はある、私はある』と言って下さい。」
(ベニー・ヒン、「キリストにおける私たちの状態、No.2 言葉は肉となった」、Orland FT, Orland Christian Center 1991, audiotape No. AO311902-side 2)

「私がキリストにあって立つ時、私は彼と一つであり、一つの霊なのである。私は、聞いて下さい、神の一部なのではなく、私が神なのです! 御言葉は私の中で肉となったのです! 私の手が誰かに触れる時、それはイエスの手が彼に触れているのです!」。
(ベニー・ヒン、「キリストにおける私たちの状態、No.2 言葉は肉となった」、Orland FT, Orland Christian Center 1991, audiotape No. AO311902-side 2)

「私は神です、あなたの癒し主です」(ベニー・ヒン)

 あなたは正気ではありません。もう一度繰り返しますが、神はただお一人なのです。御言葉が人となって地上に来られた方は、ただイエスお一人なのです。

「『あなたは、子に賜ったすべての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから。永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストを知ることであります』(ヨハネ17:2-3)

 人間一人ひとりが神の化身であると考えることは、唯一の君、イエス・キリストを否定することです。

「…不信仰な人々がしのび込んできて、わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからである。彼らは、このようなさばきを受けることに、昔から予告されているのである。」(ユダ1:4)





「今や父なる神がおられ、御子イエスがおられ、聖霊がおられ、あなたはすでに四人なのです」
(ウルフ・エクマン)


 はあ? 何ですか、それ!?


父なる神は、皆さん、人格であり、それ自体が三位一体なのです。御子と聖霊とは別にです。ベニー、あなた何をおっしゃってるんですか?(と尋ねる人があるでしょう。) お分かりですか、父なる神は人格であり、神なる御子も人格であり、神なる聖霊もまた人格です。それはその通りです。そのうちの一つ一つが、それ自体が、三位一体の存在なのです。ここからが驚きですよ。合計すると9つになるのです。ベニー、あなた今、何と言いましたか?!」
(ベニー・ヒン)

 これが、合計9つの神の位格があるという、ベニー・ヒンの有名な発言ですね。三位一体の捏造的解釈においては、手束氏も青ざめるほどの爆弾発言です。唯一の神を信じられなくなった人たちが、どんなに支離滅裂な考え方に陥っていくかという顕著な例です。


「あかしをするものが、三つある。御霊と水と血とである。そして、この三つのものは一致する。」(Tヨハネ5:7)

 同様に、父と子と聖霊も、三つの位格が一つの(唯一の)神に一致しているのです。
 三位一体の正統な解釈の破壊、それは異端に必ず現れる特徴なのです。






「神は天より下って来られ、人となられました。人々を小さな神々へと変え、人として天に戻られました。父なる神の御前に人として立たれました。他方、私は悪霊たちの前に、神の息子として立っているのです。私の言っていることが分かりますか?
 あなたは尋ねるでしょう、『ベニー・ヒン、私は小さな神なのですか?』と。あなたは神の息子なのですよ、そうじゃありませんか? あなたは神の子供ですよね? あなたは神の娘ですよね? それでは、あなたはつまり誰だということになりますか?
 たわごとを捨てて、頭を働かせて下さい、あなたは誰なのですか? (聴衆から、”I am”の声。)もしあなたが『私はある』(I am)とおっしゃるのであれば、あなたは彼の一部だとおっしゃっているわけですよね? 彼は神ですよね? あなたはその子孫ですよね? 彼の子供なのですよね? だとすれば、あなたがたは人間ではあり得ないわけです…」
(ベニー・ヒン)

 
イエスはとして生涯を終えられ、天に昇ったとベニー・ヒンは言うのです。 そして、逆に、地に残された我々肉なる人間こそがになっているのだと。
 そこで、パウロの言葉はどう解釈されるのでしょうか。「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている」、「だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ7:18,24)。
 このように、罪と死の法則性に支配されている生まれながらの肉は、聖なるものではあり得ず、神の性質を帯びることはありません。堕落した肉が神になるなどあり得ないのです。


「あなたにはキリストがいるなどとおっしゃらないで下さい、あなたは彼がかつてそうであったもの全てであり、彼が今そうであるもの全てであり、彼がこの先あるだろう全てなのです」
 (ベニー・ヒン、「キリストにおける私たちの状態、No.2 言葉は肉となった」、Orland FT, Orland Christian Center 1991, audiotape No. AO311902-side 2)

あなたは完全に神なのである
(ケネス・コープランド著、『今や私たちはイエス・キリストの中にある』、Fort Worth: KCP Publications, 1980, 16-17)

「もう一度繰り返して下さい、私は完全に神なのだと」
(クレフロ・ダラー、「自分の世界を変えつつ」16.04.2002. LeSea Broadcasting)

「『…あなたは心に高ぶって言う、『わたしは神である、神々の座にすわって、海の中にいる』と。しかし、あなたは自分を神のように賢いと思っても、人であって、神ではない』」(エゼキエル28:2)

 あなたたちは人です。人であって、神ではありません。しかし、彼らの高ぶりは果てしがありません…。

「あなたたちに今まさにお知らせします、あなたたちは小文字の神々なのだと。あなたたち神々は、神からやって来たので、神々なのですあなたはただ人間ではないのですあなたの中で唯一人間的なものは、あなたがその中に住んでいる肉体だけです
(クレフロ・ダラー、「神の形に似せて創造された者たち」、15、9月22日、2002年)

「私は小さな主たちがおられることを信じています。小さな主です、隣の人の方を向いて、おっしゃって下さい、『こんにちは、小さな主よ』と、さあ、どうぞ!』」
(クレフロ・ダラー、”Christian Celebrity or Charismatic Gnostic?”, tape No.1418)

 こうして彼らは、互いを神とし、誉めそやしあっているわけですが…。

互いに誉れを受けながら、ただひとりの神からの誉れを求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。」(ヨハネ5:44)

私たちは神の本質であり、この世における神の終わることのない変化(へんげ)なのである」
(アール・ポルク、Held In The Hevens. Atlanta: K. Dimension Publishers, 1985, p. 125)

「神がご自身の被造物を(全ての被造物ではありません、彼の人々だけですが)小さな神々と呼ばれると聞いて、なぜ多くの人々が困惑するのか私には分かりません。もし彼が神ならば、生まれながらの神々という他に、彼らを何と名付けるべきなのですか? 同じように、あなたたちに子供が生まれれば、その子に自分と同じ家の名前をつけるでしょう。家畜が子を産めば、それは家畜と呼ばれます。では、神は私たちを何と呼ぶのですか? 聖書は、私たちが神の形に似せて創造されたと言っていませんか?」
(ジョイス・マイヤー)

「犬が犬を産み、猫が猫を産むように、神が産み出すのは神々である。私たちは全員、小さな神々なのである」(ケネス・コープランドのTBNでのTV演説、Praise the Lord show)

「犬の子が犬であり、猫の子が猫であるように、神の子は小さな神々である。私たちが自分が小さな神々であることを自覚しないうちは、小さな神々としてふるまうことはなく、神の国には入れないのである」(アール・ポルク、Satan Unmasked, p.97)

(このような説明は、ウィットネス・リーも行なっているとのことですが、) 聖書によれば、命というものは種族に従って生まれるものであるから、犬は犬を産み、猫は猫を産み、そして、神は神を産むはずだ、従って、神が創造したのだから、人間は神であるはずだと言いたいのですね…? しかし、聖書は何と言っていますか?

「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。」(Tヨハネ3:2)

 聖書は、生まれながらのアダムの肉が、堕落のゆえに神と断絶しており、十字架の死を経なければ、生まれながらの人は贖われないこと、また、御霊によって生まれたクリスチャンは、キリストの似姿へと変えられていきますが(これはクリスチャンがキリストと同一人物になることを決して意味しません)、クリスチャンが真にキリストに似る者となるには、この古き肉体の幕屋から解放されて、新しい復活の身体をいただく主の再臨の時まで待たねばならないことを示しています。
「そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。」(Uコリント5:6)

「群集はパウロのしたことを見て、声を張り上げ、ルカオニヤの地方語で、『神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお下りになったのだ』と叫んだ。…ふたりの使徒バルナバとパウロとは、これを聞いて自分の上着を引き裂き、群集の中に飛び込んで行き、叫んで言った、『皆さん、なぜこんな事をするのか。わたしたちとても、あなたがたと同じような人間である。…』(使徒行伝14:11-15)

 真のクリスチャンは、自分が神と呼ばれることを忌み嫌います。キリストが私たち信仰者の内にお住まいになり、御子のゆえに、私たちが神の子供たちとされたことと、私たちが神(々)と呼ばれることは、全く違う事柄なのです。キリスト者は自分自身にではなくキリストに栄光を帰する民です。





「…恐れるのは…、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。」(Uコリント11:3)

「主は言われます、あなたたちにとって新しいことはすべてここから始まるのだと」
(ティー・ディー・ジェイクス)


 「新しいことが始まる」、このような言葉を聞く時には、注意して下さい、聖書は言うのです、
「日の下には新しいものはない」(伝道の書1:9)と。
 ありもしない魅惑的な「新しい教え」に引きずられて、思いを汚されることがあってはなりません。

それでどうやって思いが汚されるのでしょうか?

「私はこのことを7年ほど前に理解しました。突然、誰かが私を打ったような感じがしました。キリストの御言葉でした。それはギリシア語でした。ヘブライ語の『メシア』の直訳でした。それが英訳され、三つの言語で同じ意味を持っています。『メシア』という言葉は『油注ぎ』を意味します。『油注がれた者、神によって油注がれた者』という意味なのです。…このことはあなたの目を開くに違いありません」
(ケネス・コープランド)

あなたが『私はクリスチャンです』と言う時、ヘブライ語であなたは『私はメシアだ』と言っているのです。つまり、私はこの地上における小さなメシアなのです。これは驚くべき啓示です! 違った言い方をさせて下さい、あなたは、回転する地球における、小さな神なのです」
(ベニー・ヒン、Praise-a-Thon, TBN, 1996年11月6日)

「私たちは『小さな神々』であり、神のあらゆる力を備えた神の一部なのです。また私たちは『小さなメシア』であり、イエスがかつてそうであられた全て(の性質)を持っているのです」
(ベニー・ヒン、The Berean Call, 1992 Media Spotlight Special Report, Feb 94)

「イエスは…言われた『人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだ[注:私は『油注がれた王だ』『油注がれた者だ』、『メシアだ』] と言って、多くの人を惑わすであろう』」(マタイ24:4)

「私にはこれを信じるのはそんなに難しいことではありません。『彼は油注がれた者である』と信じる時、私も『油注がれた者』であると」
(ケネス・コープランド)

私たちはキリストです!
(ケネス・ヘーゲン)

「信ずる者たちはキリスト(にちなんで)と呼ばれた…。私たちは誰でしょうか。私たちはキリストなのです!
(ケネス・ヘーゲン、Zoe, The God-Kind of life. Tulsa. OK: Kenneth Hagin Ministries. Inc.. 1989, p.35-36, 41)

「このことが分かり、それを信じ始めると、聖書の中にキリストという言葉が出て来る度に、あなたは立ちどまって、それを『油注がれた者』、『神の油注ぎ』と翻訳します、そしてキリストの油注ぎがあなたにも適用できることが分かるのです。この聖書の箇所はあなたのことを示しているのです」
(ケネス・コープランド)


…この箇所が本当に私たちのことを示しているのでしょうか???

「…忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。」(黙示録1:5-6)

 私たちのうちの誰が死人から最初に復活したのでしょうか。誰が人を罪から解放する力を持っているのでしょうか。誰が栄光と力を受けるにふさわしいお方なのでしょうか。断じて、それは私たちのことではありません!!

…この箇所も私たちのことを示している???

「あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである」(ヘブル3:1)

 信仰者一人ひとりの内にキリストが住んで下さることを私たちは知っています。けれども、私たちの内にキリストが住んで下さるからといって、私たちはキリストとはあくまで別の人格であり、両者が混じり合ったり、完全に一体化することはあり得ません。キリストは私たちを別の人格として、それぞれの自由意志を尊重して下さいます。そして、私たちが宣べ伝えているのは、自分自身ではなく、キリストなのです。私たちが栄光を帰するのは、キリストお一人なのです。

「しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えるわたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。」(Uコリント4:5-6)

 クリスチャンはみな、キリストの似姿へと変えられることを願っています。が、それは自分をキリストと呼んだり、自分が神であると宣言したりして、人が自分自身に栄光を帰する道ではありません。クリスチャンがキリストの似姿に変えられていく行程は、むしろ、迫害や、苦難や、さまざまな試練を通して、生まれながらの自己を十字架につけられ、ますます低められ、へりくだっていく道です。それは人間(の生まれながらの肉)が高められて、生まれながらの人が栄光化される道ではなく、御子が栄光をお受けになる道なのです。

(前半 終わり)

後半部分、そして、第二部へ続きます。翻訳が出来次第、追加していく予定です。



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