罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか


――ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者 杉本徳久氏による
多くのクリスチャンに対する聖書と法に基づかない虚偽の告発と
カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――


著者 ヴィオロン

目次

第一章 
「随想 吉祥寺の森から」とカルト被害者救済活動の指導者たちは
なぜ教会とクリスチャンへの大迫害に及んだのか


1.「罪と罰  ――Sさん(杉本徳久氏)への手紙」

    …杉本徳久氏によるヴィオロンと関係者一同へのいわれのない断罪について

2.最近の裁判に見るカルト被害者救済活動の敗北
    …ビュン・ジェーチャン氏の裁判、鳴尾キリスト福音教会の裁判について

3.己が罪から目を背ける者は無実の他者を断罪する
    …カルト被害者救済活動の指導者はなぜ他人を告発する作業をやめられないのか

4.兄弟たちを訴える者  神の子供たちと悪魔の子らの区別
    …兄弟同士が告発し合うための制度を設立しようとしたカルト被害者救済活動

5.聖書は兄弟同士が裁きあう制度の設立を認めていない
    …カルト監視機構はなぜ反聖書的発想なのか

6.互いに訴え合うというカルト被害者救済活動の敗北
    …教会の争い事を解決するために裁判を用いることについて聖書は何と言っているか

7.裁判は教会の御霊の支配とこの世の支配を逆転させる
    …教会が問題解決に当たり裁判を通して世に助けを求めることにどんな危険性があるのか

8.肉によって生まれた者が霊によって生まれた者を迫害する
    …神の義によらない自己の義に基づく”弱者救済”活動の忌まわしさ



第二章 神なきヒューマニズムとしての弱者救済の思想の危険

第三章 ”善悪の路線ではなく、いのちの御霊の路線”で生きるクリスチャンへの迫害


(第二章以降は完成次第、アップロードします。著作権はヴィオロンに属しますので転載はご遠慮下さい。)



1.カルト被害者救済活動と「随想 吉祥寺の森から」は
なぜ教会とクリスチャンに対する大迫害に及んだのか




1.「罪と罰――Sさんへの手紙」


 前掲の「罪と罰――Sさんへの手紙」は、2009年末、カルト被害者救済活動を支持するブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久氏が、「東洋からの風の便りU」の著者であった私ヴィオロンとその掲載記事、および、関係者一同を標的にして、ネット上で約1千件以上のコメントを伴う虚偽に満ちた告発記事を掲載し、関係者一同の名誉をいわれなく著しく傷つけたことについて、私ヴィオロンが2010年にブログ上に発表した手紙です。

 この公開書簡において私は、杉本氏が私を非難するためにブログに掲載した告発記事の内容が事実に基づかず、膨大な虚偽を含む架空の訴えであり、数多くの人々の名誉をいわれなく傷つけるものであることを指摘し、さらに、これまで杉本氏が個人的な怒りと憎しみに基づいて行なって来たおびただしい数のクリスチャンへの告発・バッシングが、どれほど度を越えた行き過ぎであり、かつ違法性があって、聖書にも反したクリスチャンにあるまじき所業であるかを訴えました。そして杉本氏にがキリストにある兄弟として呼びかけ、彼らが自ら犯した過ちを悔い改めて、キリスト教界を敵対視したり、私怨に基づいてクリスチャンを次々と告発する作業をやめて、聖書の真理に立ち戻り、彼自身も罪赦された罪人の一人として、キリストの十字架に立ち戻り、兄弟たちを赦し、和解するよう呼びかけました。文中のSさんとはすべて杉本徳久氏を指します。

 「随想 吉祥寺の森から」は、当初、キリスト教界で起こった不祥事に巻き込まれたカルト被害者が教会に対して起こした裁判などを支援し、かつ教会のカルト化に警鐘を鳴らすという立場から、教会の不祥事について次々と教会の内情を暴露するような記事を掲載しては、クリスチャンの世間を騒がせていました。その絶頂期には読者数が一日当たり約1千人以上に及ぶという、個人ブログとしては異様と言える規模を誇りました。

 しかし、当初から、ただ杉本氏個人だけの思惑に基づいて、事実に基づかない不確かな内容の、しかも個人のプライバシーに著しく触れるような告発記事がクリスチャンの実名入りで次々と発表されることや、そのようにして杉本氏がブログで自らの独断でターゲットとして定めたクリスチャンが、大勢の読者の前にさらし者とされ、コメント者らの無責任な発言によって名誉を傷つけられ、袋叩きのような仕打ちを受けていることに対しては、これは法を無視した礼儀にも常識にも反する行き過ぎであり、聖書に基づかないクリスチャンにあるまじき言語道断な行為であると、数多くの信仰者から反対が寄せられていました。

 また、裁判や、カルト監視機構の設立という、この世的方法論を用いてキリスト教界の腐敗を浄化することを目指しているカルト被害者救済活動そのものに対しても、たとえばTコリント6:5-7を参照しても分かるように、これは聖書にのっとった教会の問題の解決方法ではないため、今後、大変危険な経過を辿るに違いないと、多くのクリスチャンが幾度も懸念を表明しており、この運動に関わる人々に聖書に立ち戻るよう促しました。しかし、杉本氏や彼のブログのコメント者らがその警告をかえりみて、自分たちの行為が聖書から逸脱した危険なものとなっていることに気づき、また法を無視して行なった行為について、関係者に謝罪することはありませんでした。

 初めのうちこそ、「弱者救済」の旗を掲げることで、人々の支持を集めたカルト被害者救済活動ですが、それが実際には聖書に基づかない、大変危険なものであることをいち早く察知していたクリスチャンたちも決して少なくはありませんでした。こうした人々の予想どおり、カルト被害者救済活動は、驚くほどの短期間で、無軌道で無秩序な運動として暴走していったのです。そこでは、実際に深刻な被害を受けた真の被害者だけでなく、”自称”被害者や、”自称”被害者の支援者など、様々な思惑を持った人々が登場し、被害者サイドの訴えには、真実と虚偽が入り混じり、議論は紛糾に紛糾を重ね、ついに誰も真偽のほどを見分けられないような深い闇へと落ち込んで行ったのです。

 カルト被害者救済活動の支援者たちは、ただ被害者として名乗りを上げた人々だけの訴えに基づいて、その訴えの真偽をきちんと検証さえせず、”疑わしい”と判断した牧師やクリスチャンを次々断罪していったため、この運動は次第に事実から遠ざかり、魔女狩りのような様相をさえ帯びて、数え切れない無実のクリスチャンの名誉をいたずらに傷つけるだけの無分別で有害な運動と化しました。

 しかも、カルト被害者救済活動の支援者らは、一方では、教会の問題の解決方法として、当初、法律にのっとった裁判による解決を提唱していたにも関わらず、同時にインターネットを使って、全く法に基づかない身勝手な制裁(私刑)を積極的に推し進めたのです。杉本氏とのブログでは、この活動の支援者たちが、法律を全く無視して、自分たちが独断でターゲットとして狙い定めた牧師やクリスチャンを一方的に吊るし上げ、誹謗中傷の限りを尽くすことが習慣化していきました。こうして杉本氏のブログそのものが、カルト被害者救済活動の支援者らが、自分たちの意にそぐわない人物に違法かつ身勝手な制裁を加えるための重要拠点になったのです。

 ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久氏は、カルト被害者救済活動がこのように無秩序で違法で残酷な運動と化していくその中で、中心的役割を担っていたと言って過言ではありません。杉本氏は、自分のブログにおいて無数のコメント者たちを巧みに誘導しながら、自分たちが”カルトの疑いがある”とみなしたクリスチャン、さらには、自分たちの活動に反対するクリスチャンを次々と槍玉に挙げては、何の予告もなく、また、本人からは何の承諾も得ずに、著作権を無視して、そのクリスチャンたちのブログの文章やメッセージや写真を掲載したり、法を無視して実名や住所や職場まで公表したり、数々の違法行為を繰り返しながら、彼らの名誉を著しく傷つける発言を行なっていきました。牧師や伝道者だけでなく、個人のクリスチャンまでが非難の対象に含まれ、特にクリスチャンのブログがターゲットとされていきました。こうしていわれなくクリスチャンを断罪することで、杉本氏らは自分たちにとって好ましくないあらゆるクリスチャンにことごとく制裁を加え、反対者を脅かし、あらゆる有害な影響を与えようとしたのです。

 こうして杉本氏のブログは、当初掲げていた「カルト被害者を救済するために法に基づいた解決を目指す」という旗印とは全く裏腹に、実際には、果てしない無法状態・違法行為を率先して推し進める場となり、しかも、それは”自称”被害者や、ただ教会に恨みを持つだけの”自称”クリスチャンたちが昼夜を問わず集まっては、気に入らないクリスチャンに誹謗中傷の限りを尽くしては復讐をなしとげるための残酷な処刑場のようになりました。しかも、杉本氏は、教会の内通者である情報提供者から寄せられた情報を鵜呑みにして、事実関係をきちんと検証もしないまま記事にしていったため、記事内容は事実からまるでかけ離れたものとなり、ついに彼のブログそのものが嘘の温床と言って差し支えない状態になったのです。杉本氏のブログ記事の内容が、どれほど信頼性のないものであったかは、警察の捜査結果および最近の裁判におけるいくつもの判決を通して公に裏づけられています。

 こうして、著作権侵害、プライバシーの権利の侵害、名誉毀損、肖像権の侵害、事実に反する虚偽の記載、内心の自由(信教の自由)の侵害、脅迫など、杉本氏のブログで率先して行なわれた違法行為は数知れず、ブログそのものが著しい犯罪性を帯びるまでになりました。そこで、杉本氏のブログは警察の捜査の対象となった上、虚偽のコメントを行なったコメント者が刑事告訴される事態にまで発展しました。さらに、周辺では、カルト被害者が裁判に破れ、自ら加害者として提訴した人物によって逆に訴えられるという事件も起こっています。

 杉本氏のブログにおいて実名を挙げていわれなく糾弾されたクリスチャンは数百名以上に上ると思われることから、今後、杉本氏とカルト被害者救済活動の支援者たちには、自ら引き起こしたいわれのない告発に対して、相当に重い責任が次々と公の場で追及されることが予想されます。



2.最近の裁判におけるカルト被害者救済活動の敗北


 杉本氏の書いた一連の告発記事がどれほど信頼性の低い、偏見に満ちた、誤りの多い情報であったかは、最近のいくつかの裁判の判決によっても公に裏づけられています。

 たとえば、杉本氏のブログにおいて発表当時、クリスチャンの世間には最大のスクープ記事であるかのように受け止められたビュン・ジェーチャン牧師の事件ですが、杉本氏サイドの微に入り細に渡る非難が世間に大きな影響を与えたにも関わらず、2011年5月20日にビュン・ジェーチャン氏には無罪判決が確定しました。そればかりか、ウィキペディアを参照するならば、2011年5月30日、ジェーチャン氏は被害者や被害者の会の代表者らに対して、名誉毀損、不当訴訟、虚偽告訴による損害賠償を求め、東京地裁に総額1億円あまりの民事提訴を行っていることが分かります。

 このことは、杉本氏の支援してきた被害者サイドの訴えが、司法の場では事実の裏づけの取れない信頼に値しない主張として扱われ、かえりみられなかったことをはっきりと物語っています。

 また、カルト被害者救済活動の最も主要な指導者の一人であるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密氏が中心となって、カルト被害者救済活動のサイドがこれまで声を大にして「異端者」、「教会をのっとった牧師」などのレッテルを貼って非難してきた山田牧師夫妻に導かれる鳴尾キリスト福音教会の裁判においても、カルト被害者救済活動支援者サイド(村上密氏サイド)の訴えは全面的に退けられ、二度に渡って敗北しています。(詳しくは、「鳴尾キリスト福音教会から皆様へ」を参照のこと。)

 この鳴尾キリスト福音教会をめぐる裁判の一審と二審の判決を通して私たちの目に明らかになっていることは、山田牧師夫妻の導く鳴尾キリスト教会は、正式な手続きを経てアッセンブリー教団から離脱したのであり、その離脱にはカルト被害者救済活動支援者サイドが訴えたような「違法性」は全く認められず、また、被害者救済活動支援者サイドの訴えていたような山田牧師夫妻による「教会ののっとり」の事実も全く確認できなかったということです。

(※鳴尾キリスト福音教会は2010年5月27日付で日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団より離脱し、単立教会となった。これに対し、アッセンブリー教団が文部科学省に対して離脱手続の違法性を訴え、認証取消しを求めた審査請求を行なっていたが、2010年12月1日付で教団側の訴えは棄却された。また、離脱に反対していた信者が村上密氏を相談役として起こしていた裁判も、2011年3月7日付で全面的に棄却された。村上密氏を相談役に離脱に反対していた信者が起こした裁判の控訴審(二審)においても、2011年10月20日大阪高等裁判所にて全面却下が言い渡された。)

 これらの事実に照らし合わせるならば、カルト被害者救済活動の支援者たちの訴えは、虚偽に満ちたもの、事実を捏造したものとして、司法の場においては一顧だにされていないことが分かります。それどころか、ジェーチャン氏の事件のように、一部では、杉本氏が支援して来た被害者サイドこそが虚偽の訴えを行なって著しく個人の名誉を傷つけたとして、彼らが”加害者”とみなして断罪した人物から(逆に)損害賠償の裁判が起こされるまでに至っています。

 杉本氏自身が法学の出身者であることを考え合わせると、彼の主張が司法の場でかえりみられなくなったことは、非常に重く見るべき事実であり、恐らく、カルト被害者救済活動の支持者らに対する(逆)裁判も、今後はかなり増えてくるであろうことが予想されます。

 しかし、こうした不利な状況を、杉本氏は自身のブログで押し隠そうとしており、ただ自分たちに有利な事実だけを膨らませて発表し続けているため、世情に疎いクリスチャンの中には、彼らの主張にどれほどの違法性、虚偽性が含まれていたのか、未だに気づいていない人も存在します。

 このような偏った報道姿勢を取ることで、カルト被害者救済活動の支援者サイドは、何とかして自分たちのこれまで行なって来た告発に正当性があったかのように見せかけ、そこにどれほどおびただしい虚偽、違法性が含まれているかを押し隠し、何の権利もなく、彼らがいわれなく無実の人々を断罪して、恐るべき罪を犯したという事実を隠し、彼らの側にまるで未だに”正義”があるかのように見せかけようとしているのです。

「悪しき者は正しい人をうかがい、これを殺そうとはかる。主は正しい人を悪しき者の手にゆだねられない、またさばかれる時、これを罪に定められることはない。」(詩篇37:32-33) 「正しい人の救は主から出る。主は彼らの悩みの時の避け所である。」(詩篇37:39) 

「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。」(詩篇55:22)


 私ヴィオロンに関して杉本徳久氏が発表した告発記事についても、それがどんなに多くの嘘に満ちており、もはや杉本氏と彼のコメント者たちの作り出した空想話と呼んだ方が良い読者を欺く内容であったかは、「罪と罰――Sさんへの手紙」の中で紙面を割いていくらか説明しました。この説明の他にも、杉本氏の記事内容の虚偽性は数え切れないほど指摘することができます。

 2010年、私と関係者一同に関する杉本氏の告発については、関係者の訴えに基づいて警察が捜査を開始しました。そして、「随想 吉祥寺の森から」の当該記事の全ログが差し押さえられ、また、虚偽の記載をしたコメント者が一旦、刑事責任を問われるという事態にも至りました。これは彼らの掲載した記事内容には犯罪性があることが公に認められたことを意味します。

 このような事実があるにも関わらず、杉本氏は自ら発表した告発記事の中に膨大な嘘が含まれている事実を今なお認めていません。彼は未だに虚偽の告発を続けていますが、しかし、それはもう明らかに支離滅裂で正常な意味をなさなくなっていることから、主の御手が伸ばされており、この運動に終わりが来る時がもうすぐそこまで近づいていることが感じられます。私たち兄弟姉妹が杉本氏への呼びかけによって彼の心を変えることも、和解に導くこともできなかったのは残念ではありますが、聖書にはこうあります、
「…神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。」(ローマ9:18)と。

 ある意味で、最も卑劣かつ無責任であったのは、杉本氏のブログに無責任な虚偽のコメントを書いた者たちと、杉本氏に嘘の情報を与えた情報提供者であったとも言えるでしょう。杉本氏は聖書の真理を退け、神の事実を見失って、自分の正義感に頼ったその時に、虚偽のたくらみを持った卑劣な人々によって罠に陥れられたのだと言えます。こうして、
「悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。」(Uテモテ3:13)という御言葉が本当になったのです。杉本氏のブログのコメント者たちは、形勢が不利になると、無責任な虚偽のコメントの責任をただ杉本氏一人だけに負わせたまま、沈黙を決め込んで暗闇の中へ逃げ去っています。

 私たちはこの運動に対しては主の裁きが近いことを知っています。
「兄弟たちよ。互に不平を言い合ってはならない。さばきを受けるかも知れないから。見よ、さばき主が、すでに戸口に立っておられる。」(ヤコブ5:9) 当のカルト被害者たちでさえ、多くはもうずっと前に杉本氏らの主張の異常さに気づいて、この運動から身を引いています。また、良心的なクリスチャンたちは、虚偽の情報に触れないために、杉本氏のブログに目を通さないようにしています。ですから、カルト被害者救済活動は、もうずっと前に名ばかりの運動となっていると言っても良いのですが、ただこの活動の指導者たちだけは、全く自分たちの失敗を認めず、この運動の絶望性にも気づかず、自分たちの運動に未だ「弱者救済」という正義があるのだと信じて、霊的盲目のうちに破滅へと突き進んでいるのです。そして、最も世情に疎く、最も与えられた情報を疑うことを知らない読者だけが、今になってもまだこのブログの虚偽の情報に踊らされているのです。かの日にはこのような悪事に関わった全ての人々にも、責任が問われるでしょう。

 聖書は言います、「あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである。」(マタイ12:36-37)

  たとえこの世の裁判において発言の責任を問われなくとも、終わりの日には、全てのクリスチャンは主の御前に立たされ、主ご自身から自分の行なった無益な発言について釈明を求められるのです。ですから、愚かしい俗悪で偽りに満ちた議論は、クリスチャンを正常な信仰から逸らしてしまい、果てしのない争いに陥れるだけであって、何の益ももたらさないので、そういうものに関わってはならないと聖書は私たちにはっきりと告げています、
「俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。」(Tテモテ4:7)、「俗悪なむだ話と、偽りの『知識』による反対論を避けなさい。ある人々はそれに熱中して、信仰からそれてしまったのである。」(Tテモテ6:20-21) 

「あなたは、これらのことを彼らに思いださせて、なんの益もなく、聞いている人々を破滅におとしいれるだけである言葉の争いをしないように、神のみまえでおごそかに命じなさい。あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない練達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい。俗悪なむだ話を避けなさい。それによって人々は、ますます不信心に落ちていき、彼らの言葉は、がんのように腐れひろがるであろう。」(Uテモテ2:14-17)

「もし、違ったことを教えて、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教に同意しないようなものがあれば、彼は高慢であって、何も知らず、ただ、ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である。だから、ねたみ、争い、そしり、さいぎの心が生じ、また知性が腐って、真理にそむき、信心を利得と心得る者どもの間に、はてしのないいがみ合いが起るのである。」(Tテモテ6:3-5)


 この運動に関わった人々には今後、どのような形で責任が問われることになるか分かりません。このように無分別で愚かな議論や活動に関わらなかった人々は幸いです、私たちはキリストの健全な言葉にとどまり、ただ初めから聞いていたキリストの教えにとどまるのです。

「初めから聞いたことが、あなたがたのうちに、とどまるようにしなさい。初めから聞いたことが、あなたがたのうちにとどまっておれば、あなたがたも御子と父とのうちに、とどまることになる。」(Tヨハネ2:24)

「いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。 しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。」(Uテモテ3:12-14) 



3.己が罪から目を背ける者は無実の他者を断罪する


 私の手元には、これまで杉本氏から私に宛ててメールで送られたおびただしい数の脅迫の手紙が保存してあります。そこで杉本氏は、私や関係者に宛てて、罵詈雑言に満ちた脅し文句を盛んに用いて、彼の支援するカルト被害者救済活動に賛成しない人々に対する抑制できない怒りと憎しみをぶちまけています。杉本氏はそうした手紙の中で、記事の中でも行なってきたように、私を”アッセンブリー教団によってマインドコントロールされている信者”、”カルト信者”などとあらん限りの文句を用いて中傷しています。

 このような杉本氏の脅迫状は、私のみならず、KFCのDr.Luke、救世軍の山谷少佐などに宛てても同時送りつけられているため(別の件でも、杉本氏に勇気を持って忠告したり、警告を送った大勢のクリスチャンが杉本氏からのそのような脅迫状を受け取っているのではないかと思われます)、その内容を見れば、本当に異常な心理的傾向を持っていたのが誰であるかは誰の目にも明白になります。 こうした杉本氏の手紙の常軌を逸した内容だけでなく、杉本氏のブログ記事の内容を通しても、彼が自分の活動に反対する者に対しては、怒りと憎しみの爆発を全く制御することのできない、心理的に不安定な傾向を持った人物であることはすでに知られています。残念ながら、このような性急な怒り、悪意、敵愾心、赦さない心、憎しみ、頑なな自己義認、忍耐のなさ、爆発的な怒りの発作と、絶え間ない告発、反対者には容赦なく制裁を加えずにいられない強い復讐心、といった特徴は、カルト被害者救済活動に深く関わって来た人々全般に共通して見られる特徴です。

 それにも関わらず、杉本氏が自分の尋常ならぬ状態は微塵も認めようとせず、かえって他のクリスチャンを精神異常と断定したり、カルト信者と決めつけたのは、杉本氏自身が自分でどうしても見ることを拒みたかった自分の否定的な性格や傾向を、他者に転嫁することで、自分の罪から目を逸らしたかったためだと考えられます。

 たとえば、”アッセンブリー教団にマインドコントロールされた信者”という、私に対する杉本氏の非難ですが、それは誰よりも杉本氏自身の心の状態を表わしているのです。私はかなり以前にアッセンブリー教団を離脱しているため、この教団とはとうに一切の関わりがありませんが、しかし、杉本氏は村上密氏の活動への支援などを通してアッセンブリー教団に未だに関わり続けています。

 杉本氏がこうして今もアッセンブリー教団との縁が切れていないだけでなく、ずっと以前から聖霊派をことさらに敵対視しており、そしてアッセンブリー教団に対しては、今も拭い去れない深い不信感、もしくは深い恨みを持っていることは、彼の文章の随所から伺えます。しかし、杉本氏は自分自身のそのようなアッセンブリー教団への憎しみや嫌悪感を、決して自分のものとは認めようとせず、その葛藤に満ちた苦しい心理状態を他者に投影することで、都合良くストレスを吐き出そうとしたのです。このようにして彼は他にも本来、自分の負うべき責めを、次々といわれなく他者に投影・転嫁しては、多くのクリスチャンに濡れ衣を着せて断罪して行ったのであり、そのようにして彼は自己嫌悪から逃れようとしていただけでなく、罪のない他者を断罪することで、一種の身代わりの自己懲罰(?)を下そうとしていたものと考えられます。そうすることによってしか、もはや自己嫌悪を解消できない状態にあったのでしょう。

 同じようなことが、やはりカルト被害者救済活動の支援者であるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密氏の行動についても言えます。村上密牧師が、沖縄などにあるカルト化の疑いのある教会に対して、被害者を支援して積極的に教会や牧師に対する裁判を勧め、被害者を救済するという名目で、その教会にいた元信者たちを自分の教会員に加えて行ったことは周知の事実です。被害者たちが自分たちで教会を建て直し、地元で自立していくことを助けるのではなく、彼らを自分の教会に併合してしまうことによって自教会の拡大をはかった、このような村上氏の行為は、裁判をしかけられた側の教団や教会から見れば、当然、「教会ののっとり」と非難されても不思議ではないものです。ところが、村上密氏は自分自身の行為に対するそのような非難は認めようとせず、むしろ、それとは何の関係もない、彼の所属するアッセンブリー教団から合法的に離脱していった鳴尾キリスト福音教会の牧師に対して、「教会ののっとりをしかけた」といういわれのない罪を着せて、教会が教団を離脱した手続きを無効にすべく、信徒が起こした裁判を手助けしたのです。しかし、村上密氏サイドの訴えた”罪状”は司法の場では全く事実とは認められませんでした。

 恐ろしいまでに自分の罪が見えなくなった頑なな自己義認と、どんなに支離滅裂な訴えを捏造してでも、自分に賛同しない者には容赦のない制裁を加えずにいられない、他者に対する尽きせぬ復讐心のような執念は、カルト被害者救済活動に関わった人々全体に共通している傾向であるように見受けられます。絶え間なく誰かを告発し、誰かに戦いをしかけていなければ、もはや一日たりとも過ごせないという心理状態が幾人もの人たちに共通して見られるのです。これが
「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。」(ローマ12:18)と命じられているクリスチャンのあるべき姿であるかどうかは、もはや万人の目に明らかです。そして彼らの活動がいかなる実を結んでいるかももう明らかです、聖書が次のように告げている通りなのです。「あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。」(マタイ7:6)

 人は時折、自分に向けられた非難をかわすために、または、自分自身の犯した罪を直視したくない気持ちから、自分の欠点や過失を自分よりも弱い他者に投影・転嫁することで、自分の罪から都合良く目を背け、しかも、他人を罵ることで自分の身代わりに他者に懲罰を背負わせようとすることがあります。それによって、自己嫌悪や罪責感から逃れるためです。「これは私がしていることではなく、あいつがやっていることなのだ」と、自分をごまかすために、嘘の心理的なからくりを作り出し、本来、自分が責任を負わねばならない不都合な事実をすべて他者に転嫁するのです。それは自己防衛のために作り出された歪められた精神病理的な思考パターンであり、病的な症状であることは明らかなのですが、当の本人は自己正当化の思いによって頑なになり、心が盲目にされているため、決して自分の思考が異常な状態に陥っており、自分が事実を正常に受け止められなくなっているのだとは気づきません。そして自分は正しく、あくまで悪いのは他人だ、と決め込んで、正当な理由が存在しなくなっても他者を次々と断罪し、実際に制裁を加えていくのです。

 自分の罪を率直に認め、神の御前に真摯な悔い改めとともに持って行き、子羊の貴い血潮によって罪赦されたという確信に立つことこそ、罪の最も早い解決の方法なのですが、自己義認の思いに目が塞がれて、最も単純な悔い改めさえできなくなったクリスチャンは、そのうち、自分の罪から目を背けるために、事実を捏造してでも、色々な嘘の理由の作り上げては、自分以外の他者を断罪するようになっていきます。初めは欺かれる人もいるかも知れませんが、彼らはやがて絶え間なく争いを引き起こし、ひっきりなしに捏造された理由によって誰かを罪定めしなければ落ち着かないようになるため、彼ら自身がどんなに否定したとしても、異常は全ての人の目に明らかになります。

 たとえクリスチャンを名乗っていても、このような行いをしている人々の姿は、まさに黙示録に書かれている
「われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者」(黙示12:10)にそっくりであることに誰しも気づかないわけにはいきません。



4.兄弟たちを訴える者 神の子供たちと悪魔の子らの区別


「神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も、同様である。…カインのようになってはいけない。彼は悪しき者から出て、その兄弟を殺したのである。なぜ兄弟を殺したのか。彼のわざが悪く、その兄弟のわざは正しかったからである。」(Tヨハネ3:10-12)

「わたしたちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを、知っている。愛さない者は、死のうちにとどまっている。あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。」(Tヨハネ3:14-15)

「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。」(ヨハネ8:44)

 カルト被害者救済活動の主たる支援者の一人である日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密氏が、かつてキリスト教界のみならず、宗教の枠組みを超えて、全宗教界のカルト化を取り締まるために、「カルト監視機構」なるものの設立を提唱していたことは周知の通りです。

 これは一時期、日本の教会に不祥事が相次いだ事実を受けて、カルト化の疑いのある教会を取り締まるために、様々な分野の専門家から構成される教会外の独立した機関(第三者委員会のようなもの)を設立し、この機関に、各教会に対する監視や調査の権限を与え、腐敗した教会を取り締まることのできる何らかの実質的な権限を持たせようという発想でした。

 2009年当時、私はブログ記事の中で、このような機構を設立するという発想は、そのものが反聖書的発想であり、もしもカルト監視機構が設立されれば、必ずや、それは何者にも制限・監視されることのない(諜報・監視・懲罰)機関として独走していき、プロテスタント教会の自治を破壊し、クリスチャンの内心の自由を侵し、キリスト教界は浄化されるどころか、未だかつてないほどに恐ろしく悲惨な場所へと変わってしまうだろうと警告しました。

 そもそも、株式会社の不正を取り締まる場合なら、法律に基づいて、独立した第三者委員会を設置するのも良いでしょう。しかし、教会は株式会社と同じではないのです。信仰の事柄をどのようにして外側から誰かが調査したり、取り締まることができるのでしょうか? それは人間の内心の自由(信教の自由)という、最も侵しがたい領域に人が手を触れることを意味するのではないでしょうか? しかも、「カルト」や「カルト化」の定義は誰が定めるのでしょうか? 誰の訴えに基づいて教会に対する調査が始められるのでしょうか? どうやってその訴えが事実であるかどうか確認できるのでしょう? 当時、カルト監視機構の定義においては、こういった疑問に対する答えは何ら明らかにされていませんでした。

 さらにもっと恐ろしい危険は、次の点にありました。信仰生活という、人の内心の自由をも外側から監視し、取り締まることのできるようなはかりしれない権限を持った機関が公に設立されれば、その後、その権限が悪意ある人間の手中に握られて、組織そのものが悪用されて、暴走していきかねないことです。聖書の教える人間の罪なる本質に照らし合わせるならば、そのような危険が生じないと思う方がおかしいでしょう。

 ですから、私は警告しました、一旦、カルト監視機構が設立されたなら、それは「カルトを取り締まる」という名目で暴走し、現代の異端審問所のようになっていくだろう、そして、教会とクリスチャンへの取り締まりは暴走して無秩序な魔女狩りを生み、各教会は、秘密警察のように暗躍するようになったカルト監視機構を恐れて何もものが言えなくなって、キリスト教界の言論の自由は弾圧され、教会の自治は破壊されるだろうと。クリスチャンの間では虚偽の密告が横行し、クリスチャン同士、牧師同士、教会同士が互いを我先にと告発しあうような恐ろしい疑心暗鬼の仕組みが成立し、血で血を洗う闘争が繰り広げられることになるだろうと。だから、カルト監視機構のような聖書に基づかないクリスチャンに対する監視・調査・懲罰機関は、どんなことがあっても、クリスチャンが絶対に設立してはならないものなのだと。

 村上密氏は当時、この問題の議論の核心をカルト監視機構の設立の年月日の問題にすりかえることで、これを私による誤報と断定し、当のカルト監視機構が持つはかりしれない危険性については全く議論を避けたまま沈黙しました。

 ブログ「吉祥寺の森から」の著者杉本氏は、村上密氏のカルト被害者救済活動を支援していた立場から、まだカルト監視機構が設立されもしないうちから、きっと自分のブログが一種のカルト監視機関のような役割を担っていると勝手に思いこんだのでしょう。彼は各地の教会の内通者(=情報提供者)から寄せられる情報を基にして、自分のブログ上に、数多くのコメント者と一緒になって、”カルト化の疑いがある”とみなした教会や牧師やクリスチャンを激しく非難する記事を続々と掲載していきました。何の権限も持っていない一個人に過ぎない彼が、まるで全キリスト教界の上に支配権を握っている機関の代表ででもあるかのように、自分のブログで教団教派、無所属を問わずあらゆるクリスチャンの名誉を貶め、彼らに事実上の制裁を加える作業に従事していったのです。

 このことは、杉本氏個人のブログが事実上のカルト監視機構に成り代わったことを意味すると言って過言ではありません。多くの反対に遭ってカルト監視機構の設立に失敗した代わりに、カルト被害者救済活動の支援者らは密かに、杉本氏個人のブログに、教会のカルト化の監視と取り締まりのための”事実上の権限”を持たせようとしたのではないかと考えられます。実際に、杉本氏個人のブログに発表された情報は、被害者救済活動支援者サイド寄りに偏った主張内容のものがほとんどであり、杉本氏と被害者支援サイドとの密接なつながりを感じさせます。杉本氏のブログは、カルト被害者救済活動の有用性を世に訴えるための広報機関となっただけでなく、この運動の支援者たちが”疑わしい”と判断したクリスチャンの名誉を貶めるための事実上の懲罰機関の役割を果たしました。こうして、杉本氏のブログは、カルト被害者救済活動の指導者らが、全キリスト教界を恐怖におびえさせることで自らの配下においていくための事実上の最重要拠点としての役割を果たしたのです。

 しかし、杉本氏という一個人が、教団教派の枠組みをすら超越して、日本全国の各教会に属するクリスチャンと、教会に所属していないクリスチャンに対してまでも、自ら君臨し、あらゆるクリスチャンの監督者、裁き主のように振舞うなど、あるまじき言語道断な行為です。そもそも、杉本氏という一個人にそんな権限があろうはずもありませんし、彼個人のブログにそんな権限を付与することが公に承認されたわけでもありません。ですから、これは一個人に許される行動の限度をはるかに越えた行為であり、完全に違法であるばかりか、神の主権をさえ侵そうとする試みなのです。ただ暗闇の勢力だけが、たった一個人のブログに過ぎないツールを用いてこのようなことをなさしめるのだと言う他ありません。

 それにしても、杉本氏も恐らく、初めのうちは、ブログにおいて自分が本当に”カルト化の疑いがある”と判断した牧師だけを糾弾するつもりだったのだろうと思われます。しかし、聖書に基づく神の義によらず、人が自己の義(という独断)に基づいて他者に制裁を加えることほど恐ろしいことはありません。彼のブログにおける”カルト”の概念は、次第に、彼らが”疑わしい”と判断した人物を確たる証拠もなしに闇雲に非難する口実として悪用されるようになり、ついには、彼らが自分たちの活動に反対する全てのクリスチャンにいわれのない汚名を着せて制裁を加えるための口実として無限に拡大解釈されて行ったのです。

 杉本氏のブログにおいては、こうして、”カルト(信者)”という言葉そのものが、杉本氏らの活動に反対する者と同一視されるようになり、”カルト被害者を支援する”という美名は、杉本氏らの活動に賛成しない者に彼らが独断で容赦のない制裁を加えるための都合の良い口実となりました。彼らは自分たちの行なっている残酷な制裁が、キリスト教的な大義名分に基づくものであって私怨に基づくものではないと見せかけるために、ターゲットとして狙い定めたクリスチャンに、”異端者、”狂信者”、”マインドコントロールされている信者”など、思いつく限りの「罪状」を作り上げては、虚偽の告発を浴びせ、誹謗中傷して行ったのです。しかも、そこには聖書的な根拠がなく、「罪状」を裏づけるだけの信頼に取る証拠も提示されていませんでした。

 かねてより、カルト監視機構が設立されれば、必ずや、このような無秩序状態が生まれ、無実の数え切れないクリスチャンが、”カルト”や、”異端者”の濡れ衣を着せられて、次々と弾圧されることになるだろうと私は予想してきたのですが、それが決して誇張ではないことが、カルト監視機構の設立を待たずとも、実際に杉本氏の個人ブログを通して証明されたのだと言えましょう。しかも、杉本氏という単なる一個人が、個人のブログに過ぎない場所で、ただ彼の意思だけに基づいて、何の公の承認も受けずに、法律にも基づかずに、数え切れないクリスチャンを断罪し、辱め、迫害したのです。そしてキリスト教界のあらゆる組織がこの恐ろしい無法状態を止めることもできなかったのです。この事実を見れば、もしも公にカルト監視機構が設立されていたとすれば、クリスチャンと教会にどれほど大規模な損害がもたらされていたかは言わずもがなです。


5.聖書は兄弟同士が裁きあう制度の設立を認めていない


 何度も述べて来たことですが、カルト被害者救済活動という運動そのものが、キリスト教の装束をまとっただけの、非キリスト教的な運動です。一体、聖書の御言葉を無視し、神の義にも敵対し、キリストの十字架を排除しながら、法にも基づかず、日本全国のキリスト教会とクリスチャンに容赦のないいわれなき弾圧を加えて、教会が教会を訴え、兄弟が兄弟を告発するように仕向け、そのような告発を認める制度を公に作ろうと提唱しているこの運動が、一体、どうしてキリスト教的な温和な改革運動でありうるでしょうか。これは神の概念を用いていていも、実際には神を抜きにした人間の作り出した恐ろしい懲罰運動なのであり、しかも、その真の目的が、クリスチャンを迫害し、教会を破壊し、クリスチャン同士の交わりを絶ち、教会とクリスチャンを貶めて、主の御名を踏みにじることにあり、これがキリスト教界を内側から崩壊させる危険性を持った運動であることは明らかです。これは次章でも説明するように、断じてキリスト教とは全く無関係の、キリスト教を装った偽りのイデオロギーなのであり、それにも関わらず、うわべだけキリスト教の装いをして、巧みにキリスト教界の中に入り込み、人間に優しい”弱者解放的な”スローガンを掲げて多くのクリスチャンを魅了しているだけに、より事態は深刻なのです。

 聖書に照らし合わせれば、カルト監視機構という発想自体が、いかに反聖書的で、サタン的とさえ言える発想であるかがすぐに分かります。まず、聖書は兄弟たちが互いに愛し合うように、と随所で命じており、「教会のカルト化を防ぐ」という美名の下、兄弟(クリスチャン)が兄弟(クリスチャン)を訴え、兄弟が兄弟を裁くことを奨励するようなシステムの存在を全く認めていません。

 イエスは言われました、
「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」(マタイ7:1-2)

「…あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。すなわち、『主が言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、私に対してかがみ、すべての舌は、神にさんびをささげるであろう』と書いてある。だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。それゆえ、今後わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう。」(ローマ14:10-13)

「そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」(ピリピ2:1-4)

 聖書は、まことの裁き主はただ神の御子イエス・キリストお一人だと教えており
(ヨハネ5:22,27)、人間が神に成り代わって自ら裁き主となって、他のクリスチャンたちの信仰を裁いたり、まして、不信仰を理由に兄弟に制裁を加えることを認めていません。異端を識別する努力をし、何が聖書に合致しているのかを目を覚まして調べることそのものが悪いのではありません、しかし、自らが悪人とみなした人物に対して自らの力によって制裁を加えることはそれとは全く別のことです。たとえ理不尽な被害に遭ったとしても、クリスチャンは決して自分で復讐してはいけないと聖書は言います。クリスチャンの信仰について裁かれる方は御子であり、そして、悪人に報復することは、人間の仕事ではなく、神の仕事なのです。

 イエスは言われました、
「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着も与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を拒むな。」(マタイ5:39-42)

 パウロはこう勧めています、
「だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさいなぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである

むしろ、『もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである』。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:17-21)


 また、パウロは、人の心の内に隠されている事柄を明らかにし、物事の是非を真に明らかにされるのは神ご自身の仕事であるため、御子が再び来られて裁きを行なうその時まで、先走って、誰も自分自身で裁きを行なわないように戒めています、「だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。」(Tコリント4:5)


6.互いに訴え合うというカルト被害者救済活動の敗北


 このように聖書は、兄弟同士が裁きあうことそのものを認めていないにも関わらず、村上密氏など、カルト被害者救済活動の支援者たちはかねてより、教会内で起こった不祥事を解決するに当たり、被害者の信徒が教会外のこの世の裁判に訴えて自分の正義を主張し、裁判を通して受けた被害を取り返し、悪人に対しては有罪判決をもたらすことで報いをなすように積極的に奨励してきました。しかし、教会で起こった争いごとをクリスチャンがこの世の裁判に訴えて解決することも、聖書は全く勧めていないどころか、反対しているのです。

 聖書が告げていることはまず、私たちクリスチャンは不当な事件を経験する時にも、自己の義に基づいて悪人に立ち向かうのではなく、神の義に基づいて、神自らが私たちを弁護してくださるように、神に助けを求めなさい、ということであり、また、神が正しい解決を下されるのを忍耐して待つようにということです。

 「わが訴えを弁護して、わたしをあがない、あなたの約束にしたがって、わたしを生かしてください。」(詩篇119:154)とダビデは祈りました。自分の遭遇した理不尽な事件について、ダビデはその是非を世に問おうとはせず、また、世人に理解や助けを求めるべきだとも考えませんでした。ダビデはまず神に向かって問題を申し上げ、神が御約束に従って、彼の訴えを弁護し、彼の命を守って下さるように求めたのです。ダビデは世の弁護人に頼るよりも、神に弁護を求めることの方がはるかに有益で、御心にかなっており、力があることを知っていました。

 クリスチャンが自らの正当性をこの世の裁判を通じて証明しようとすることの危険性は、私たちが真に弁護して下さる方である神を退けてまで、世を頼ろうとすること、そして、私たちが神の義によらずして、自己の義により頼むことで、自分を正しいと思い込んでしまうところにあります。聖書は言います、加害者であろうと、被害者であろうと、弱者であろうと、強者であろうと、善人であろうと、悪人であろうと、すべての人が神の目には生まれながらに罪人だと。 「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ3:10) 被害者だから正しいとか、弱者だから正しいといった考えは聖書にはないのです。神の目に義とされた方はただお一人であり、この方を通さなければ、私たちは義とされません。人の生まれながらの自己のうちには、何らの誇るべきものもないことが示されているのです。パウロは言いました、「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。」(ローマ7:18)

 私たち自身の中には何の義もない、だからこそ、私たちは自分で自分を弁護し、自分で自分を義とすることは無理なのです。生まれながらに罪の中に死んでおり、「生まれながらに怒りの子であった」(エペソ2:3)私たちのために、罪のない神の御子イエス・キリストが身代わりに十字架にかかられ、死なれました。もしも私たちのうちに何らかの義があるとするなら、罪のない神の御子が十字架にかかる必要はなかったのですが、私たちのうちに義がないからこそ、神は御子を地上に送られたのです。被害者であろうと、加害者であろうと、罪の大小に関わらず、この贖いの意味は同じなのです。この御子の贖いを信じることにより、本来は永遠に罰せられ、滅ぼされてしかるべき罪人に過ぎなかった人たちが、貴い子羊の血潮によって無代価で義とされたのです。これが福音であり、これが信仰による義です。

「…すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。」(ローマ3:23-26)

 自分がただ神の憐みと恵みにより、無代価で罪赦された大いなる罪人であると知っていればこそ、クリスチャンは他の人々の罪も赦すべきである、と聖書は勧めているのです。兄弟同士が裁き合ったり、告発しあうことを奨励するような仕組みを公に作ることなど全く聖書が奨励していないのはそのためです。

「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。」(エペソ4:32)

「互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。」(コロサイ3:13)


 さらにパウロは、教会は自分たちの間で生じた争いを自分たちの間で解決する知恵を持っているべきだと言います。パウロは、もしも教会で起きた紛争を解決する知恵がクリスチャンに足りないのなら、クリスチャンは神にその知恵を求めるべきであり、信仰者でないこの世の人たちの手で事件を解決してもらおうと、兄弟同士の争いごとをこの世の法廷に訴えるべきではないと言います。そんなことをするくらいならば、むしろ兄弟が兄弟に騙されても知らないふりをして不義を甘んじて受けた方がましだと言うのです。

「あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。…それだのに、この世の事件が起ると、教会で軽んじられている人たちを裁判の席につかせるのか。…いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだなぜ、むしろ不義を受けないのかなぜ、むしろだまされていないのか。」(Tコリント6:1-7)

 ヤコブの手紙にはこうあります、
「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」(ヤコブ1:5) 

 聖書は、教会で何か大変な問題が起きた時、それをクリスチャンがこの世の裁判において解決するようにとは教えていません。まず御霊による知恵を神に求めるようにと勧めています。しかし、このことを私が説明しようとすると、カルト被害者救済活動に関わったことのあるクリスチャンは、憤りを隠そうともせずにこう言うのでした、「そうは言ってもね、ヴィオロンさん、昨今の教会には自浄作用がまるきり働かなくなっているからこそ、私たちは仕方がなく、この世の裁判という教会外からの強制力を抑止力として使わざるを得ないのですよ。他の方法を全部試しても、無駄であり、誰に訴えても聞き入れてもらえなかったからこそ、裁判を選ばざるを得なかったのです。これは最後の手段なのです。本当に言うのもひどい事件が教会の中で起きているのです。この世的な方法を使ってでも、外側からメスを入れないと、被害はずっと続いていくのです。裁判を起こすことも、私たち市民に認められている正当な権利です。それなのに、裁判を使うなと言うことは、被害の拡大を黙って認めろと言っているのと同じなのですよ。あなたは被害者を見殺しにするのですか!?」

 なるほど正論のように聞こえるでしょう。このような考えは「被害拡大の防止」や「被害者の救済」を最優先にしていることから、人間に優しく、うわべはまことに道徳的で、思いやりに満ちているように聞こえるでしょう。しかし、やはりここにも巧妙な論理の概念のすりかえがあることに気づかなければなりません。

 クリスチャンがこれ以上の被害に遭わないために教会をエクソダスすることと、教会や牧師などに対する裁判に自ら訴えることで、世に対して自分の正当性を主張し、被害を取り返し、悪人に報いようとすることはまるで意味が違うのです。私は被害者が理不尽な被害をいつまでも耐え忍べば良いと考えているのではありません。クリスチャンは神の栄光を表わすために、神がお選びになった器なのですから、正常な信仰を失い、腐敗した異常な教会にいつまでもとどまって、自ら悪事に巻き込まれてその犠牲となってはいけないのです。当然のことですが、信仰そのものが歪められ、身の安全さえも脅かされ、自立を保てない危険のあるような場所からは脱出すべき(エクソダスすべき)なのです。それは聖書に反しません。(Uコリント6:14-18参照。)

 しかし、腐敗した教会をエクソダスした後で、腐敗した教会の中で罪を犯し続けている悪人に対して自ら裁判を起こすことで、自分の正当性を証明しようとすることはそれとは意味が違います。

 ロトの妻のように後ろを振り返ることがかえって危険な場合があります。エクソダス後も、裁判を通して、悪人たちと自ら関わろうとすることで、どんな危険が生まれるでしょうか? そのようにして、
「その出て来たところ」(ヘブル11:15)を振り返り、エクソダス後も、裁判を通じて悪人たちと積極的に関わろうとするならば、彼らの不義にいつまでも触れ続けることになりかねません。悪人が更生するかしないかという問題は、その人自身の問題であり、裁判を起こしたからと言って、相手の心を変えられる保証はありません。もしもその人に誠意がなかったなら、悪しき関わりが続くことでより一層の損害をこうむるかも知れません。また、多くの場合、裁判という方法を通して、被害者は本当に微々たる恩恵しか受けることができず、それどころか、被害の立証が困難であれば、法廷で破れ、逆に自分が訴えられて、さらなる損失が生じる危険さえあるのです。

 さらに大きな危険は、裁判を起こすことによって、「私は何も間違ったことはしていないのに、理不尽な損失をこうむった」という思いだけが強くなり、それが「私は被害者であるがゆえに正しい」という、生まれながらの自己の義に頼る思いになっていき、神の御前での悔い改めが失われ、その理不尽な出来事の背後にも及んでいる主の御手が見えなくなってしまうことです。教会で起きる不祥事には、巻き込まれる側にも、真理についての正しい知識が足りないことが言えます。加害者の悪事が正当化されてはならないのは確かですが、しかし、真理を知らないがゆえに御言葉につまずき、神が望んでおられなかった悪事に加担してしまったことについては、被害者もまた神の御前では自己の正当性を主張できないのです。この点については、被害者側にも神の御前に真摯な悔い改めが必要であり、この悔い改めなしに、自分の正当性だけを神に訴えたとしても、神がお聞き届けになることはまずありません。
「もしわたしが心に不義をいだいていたならば、主はお聞きにならないであろう。」(詩篇66:18)

 ところが、裁判という方法を選んでしまうと、被害者自身が正しい信仰を知らなかったがゆえに悪事に巻き込まれ、真理につまずいてしまったことを神の御前に真摯に悔いる機会が失われていき、かえって、彼らが自己の正当性に頼るという結果が生まれるのです。そして、裁判を起こすことで、被害者たちの関心は、より一層、神ご自身ではなく、世に向かうことになってしまいます。裁判に勝つためには、世に向かって自分の正当性を訴えるためのアピールが必要となりますので、どのようにして世論を動かすか、どのようにして世に自分の主張を受け入れてもらうのかという方法論に熱中しているうちに、クリスチャンの心はますます世に向かって行き、信仰から逸れて行ってしまうのです。そして、そのようにしてクリスチャンが世に助けを求めることは、最も公平な裁き主であられ、もっとも公平な弁護者である神を信仰者が自ら退けて、最も不公平な世の判決に身を委ねることを意味しますので、それによってクリスチャンが利益を得ることはほとんどないでしょう、なぜならその方法は神に栄光を帰さないで、人や世に栄光を帰してしまう道だからです。

 カルト被害者救済活動の指導者たちは、被害者に対して裁判を勧めることで、被害者から神の御前での真実な悔い改めの機会を奪っています。そして、「自分は被害者であるがゆえに正しい」という思い込みを助長し、また、憐れみに満ちた神ご自身がクリスチャンの最も良き弁護者となって下さる事実から目を背けさせ、聖書に反して、被害者が自ら悪人たちに立ち向かうよう勧めています。こうして、カルト被害者救済活動の指導者たちは被害者たちの関心を神ご自身から遠ざけているだけでなく、まるで自分たちこそが、被害者を救ってやれる最も有力な助け手であり、弁護者であるかのように振る舞い、被害者が神ご自身に頼るのではなく、自分たちに頼り、自分たちに栄光を帰するように仕向けているのです。しかし、それによって最も損失を被るのは被害者自身です。神ご自身による解決や、神の裁き、神の義を退けてまで、人間的な義を掲げ、人間による裁きや人間的な解決方法に頼ることの末路は、エレミヤ書に書いてある通りです。
「主はこう言われる、「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。」(エレミヤ17:5)

 この世の宝を失うことについては、聖書が一貫して何を訴えているのかを思い出さなければなりません。イエスは言われました、
「ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。」(ルカ17:32-33) 「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。…あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。」(ルカ14:26-33)

 聖書が全体を通じて一貫して述べているのは、朽ちゆく地上の宝よりも、信仰によって得られる天の宝の方がはるかに絶大な価値があるのであって、たとえ理不尽な事件によって不当にこの世の宝を奪われたり、いわれなき悪評をこむることがあったとしても、それが信仰の道で起こったことであるならば、クリスチャンは「弱者としての自分の地上での諸権利」が奪われたことだけに目を留め、その損失に憤り、悪人と自ら戦うことによって地上的損失を穴埋めしようとするのではなく、すべてを見ておられ、寄る辺のない者の保護者となって下さる神を信じ、公平な裁きと解決を求めて神に頼りなさい、ということです。それは、私たち自身が損失を取り返すために世の方を振り向いて戦わずとも、神ご自身が私たちの名誉を守って下さり、神自らが私たちの受けた損失を豊かに償ってくださり、また、私たちに悪事を働いた人たちにも正しく報いて下さることを私たちは信じて良いということです。時に、神の解決はあまりにも遅いように思われますが、忍耐強く待っていれば、必ず解決が与えられます。私たちがより頼むべき相手は、世ではなく、神なのです。
「聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。」(ローマ10:11)

 ですから、理不尽と思われる事件に遭遇する時にも、信仰によって神を信頼し、仰ぐなら、受けた悲しみに対しては必ず神の愛と慰めが注がれ、この世では得られない恵みを神から豊かに受け取ることができることをジョージ・ミュラーは説明しています、
「クリスチャンはだれも、試練や苦しみ、喪失、痛み、病気、死別を、自分の益のために神様が用意された贈り物として考えることをしません。けれども、これらの困難は信者の益のために、今も変わらず用意されているのです。神様のお取り扱いを受けるときはいつも、その御手を認めるよう求め、すべてが真に私たちの益となるために用意されていることを信じるべきです。『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべての事を働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(ローマ8:28)

 主にある兄弟姉妹、特に次のことをお勧めしたいと思います。ひとり子を与えてくださった神の愛と恵みの深さを求めるように。そして私たちのかわりにご自分を与えて下さった主イエスの愛と恵みの深さを知るように。 そうすることで徐々に肉体や精神の力、時間や才能、賜物や財産、地位も階級も持っているものすべてを愛と感謝に迫られて主にささげるようになります。持っているものはすべて主のものだからです。」(『ジョージ・ミュラー 信仰』、ランス・ワベルズ著、斉藤登志子訳、いのちのことば社、p.38)


 これは私たちが理不尽な事件に遭遇するときに、憤ったり、悲しんだり、泣いたりしてはいけないということではありません。理不尽さを感じてはならないとか、悪事に対して神の正しい裁きを求めて叫んではいけないという意味でもありません。それらは私たちにとって本当に痛みに満ちた出来事です。私たちには理不尽な事柄について神に向かって正しい裁きを願い求めることが許されています。憤りも、悔しい思いも、正直に神に申し上げて良いし、悪人に対して神が報復して下さることを熱心に求めても良いのです。しかし、それでも、私たちはその解決を神ご自身に委ねるのです。なぜなら、神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべての事を働かせて益としてくださることを、私たちは知っているからです。

 ですから、クリスチャンの信仰とは、この世で受けた損失を自分で取り返そうとして、自分を守るために自分で戦う道ではなく、すべての出来事を通して、より一層、神を仰ぎ、神の公平な裁きに信頼し、神に頼る道なのです。この世的観点から、何かを「失うまい」としたり、「保とう」としたり、「取り返そう」とすることは、人の目にはあたかも正しいことのように映るかも知れませんが、信仰の観点から見れば、それほど重大な損失はありません。なぜなら、それは主がその事件を通して私たちのために用意して下さった目に見えない天の祝福を逃してしまうことになりかねないからです。

 「もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。悪い事をして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。

キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。」(Tペテロ2:19-21)

「愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかってくる火のような試練を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現われる際に、よろこびにあふれるためである。キリストの名のためにそしられるなら、あながたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。

あなたがたのうち、だれも、人殺し、盗人、悪を行う者、あるいは、他人に干渉するものとして苦しみに会うことのないようにしなさい。しかし、クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない。かえって、この名によって神をあがめなさい。」(Tペテロ4:12-16)



7.裁判は御霊の支配とこの世の支配を逆転させる


 次に私たちは、クリスチャンが教会で起こった問題を解決するに当たり、神に知恵と解決を求めるのではなく、自ら世の裁判を起こそうとして、この世に出て行き、この世的方法に頼ることにどんな危険があるのか見てみましょう。

 教会を表わすエクレシアという単語の語源には、ギリシア語では元々、「〜から召し出す、呼び出す」という意味があり、クリスチャンとは「(神の招きによって)この世から召し出された者たち」のことです。 聖書は言います、
「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」(コロサイ1:13) クリスチャンはキリストの十字架を通して、闇の世の主権者の圧制から救い出され、キリストの御霊の統治する霊的な王国の中へすでに移し出された人々なのです。

 ですから教会とは、地理的・空間的な領域を指すものではなく、御子の統治が、つまり、キリストの御霊による支配が、神の御国の支配が及んでいる目に見えない霊的な領域のことです

 御国がキリストの御霊によって統治される霊的領域であるように、地理的・時間的・物理的空間に制約されるこの世というものも、堕落したもろもろの霊力の支配する霊的な支配体系です。そして、聖書によれば、この世を統治する最高権力者はサタンです。クリスチャンであれば誰しも、
「全世界は悪しき者の支配下にあることを、知っている」(Tヨハネ5:19)でしょうし、 また、「この世の君」(ヨハネ14:30)とはサタンに他ならないことを知っています。

 神を知らない全ての肉なる人、および、クリスチャンの中にある古いアダムの命に属する自己は、罪のゆえにこの世に売られています。
「わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。」(ローマ7:14)、またキリストの十字架によって救われていない時代、私たちは「いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた者であった。」(ガラテヤ4:3)のです。

 しかし、神はご計画に従って、堕落したこの世を滅ぼして、御国の統治を永遠に打ち立てることを決められました。キリストは十字架において死んで、よみがえられることにより、この世の君に勝利し、
「死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放」(ヘブル2:14)たれたのです。キリストは十字架において、私たちを世の奴隷として売り渡す根拠となっていた罪の債務証書を破棄し、この世のもろもろの権威と支配の武装を解除し、さらしものにされ、私たちクリスチャンは、信仰によって十字架のキリストと一つになることにより、「キリストと共に死んで世のもろろの霊力から離れた」(コロサイ2:20)のです。

 「神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものにされたのである。」(コロサイ2:14-15)

 ですから、キリストにあって、私たちクリスチャンはこの闇の世の力から救い出され、自由とされました。クリスチャンは依然としてこの世に身を置いていますし、この世との接触も避けられませんが、それでも、クリスチャンの世に対する立場は、
「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。」(ガラテヤ2:19)「この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。」(ガラテヤ6:14)、というものです。キリストと共なる十字架を通して、クリスチャンとこの世は霊的な死によって隔てられており、クリスチャンはもはや死の恐怖をもたらすこの世の統治ではなく、御霊の自由な統治下に置かれているのです。

 ですから、キリストにあって自由とされた自分の立場をかえりみるなら、世と世にあるものを愛して世の支配下に逆戻りしてはならないのです、
「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は永遠にながらえる。」(Tヨハネ2:15-17)

「不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。」(ヤコブ4:4)


 世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇り、これらはすべて人間が生まれながらの自己を喜ばせ、生まれながらの自己を保とうとする自己保存願望に通じています。これらの欲には、私たちが自分で自分の名誉を守りたいという思い、自分で自分の正当性を主張し、自分で自分の財産を守り、自分の力で自分を保ちたい、などと思う全ての自己保存願望が含まれています。自己愛、自己義認、自己正当化、自己憐憫、自己保存…、それらの願望は根本的には全て人が地上で自分の命を失うまいとする死の恐怖に端を発しています。私は、ここで人間の諸権利を否定しようとしているのではありません、それらが全て奪われることが望ましいと言っているのでもありません。ただ、クリスチャンが神によらず、自分自身の力で自分を保とうとする全ての努力が、聖書においては罪深い、忌まわしいものとされ、世から出た肉の欲と呼ばれ、父なる神の御旨に敵対する欲望とされていることに注意しなければならないのです。

 世と人の内にある肉の欲とは密接に結びついており、ともに堕落した起源を持っています。私たちが不安げにあたりを見回し、今のまま信仰にのみ頼っているのではあまりにも不足だと思い、世の方を振り向き、世のご機嫌伺いをしようとするとき、それは大抵、私たちが肉の欲に誘われて、また、死の恐怖のために、自分で自分を保とうとするときなのです。しかし、私たちの信仰の道は、世の方に向かう道ではなく、神に向かう道です。私たちを守って下さる方は神であり、私たちはこの方を信頼して自分を委ねなければなりません、死を打ち破ってよみがえられたキリストは、私たち信じる者をもはや死の恐怖の奴隷状態から解放して下さっているのです。このよみがえられた方のまことのいのちが私たちを救い、自由にしてくれるのであって、私たちが自分で自分を守り、保とうとする努力が私たちを救うことなどあり得ず、私たちの自己保存の願望は、より一層、私たちを死へと結びつけるだけであることを忘れてしまわないように気をつける必要があります。

「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。」(ローマ8:6-7)

 ですから、パウロが前述のくだりで、教会で起こった兄弟たちの間の争いごとを解決するために、クリスチャンがこの世の裁判に訴え出ることに反対したのは、決して世に対する教会の見栄を飾ろうとしてのことではなく、そもそも世から召し出されたはずのクリスチャンが、紛争の解決のために御霊に知恵を求めず、自分で自分の正当性を主張しようとして、世に出て行こうとすることは、クリスチャンがこの世の支配下に、再び、死の恐怖の支配下に逆戻りすることを意味すると知っていたからなのです。そればかりか、そうすることによって、本来、御霊の法則によって治められるべき教会をも、この世のもろもろの霊力の支配下に置くことになるのです。兄弟が兄弟を訴え、しかも、その争いをこの世の裁判によって解決しようという態度では、一体、どこに神に栄光が帰される余地があるのでしょうか? どこに信仰の意味があるのでしょうか? このような方法を取ることによって、ただ教会が恥をさらすだけでなく、教会の中にこの世の支配が入り込み、教会におけるキリストの御霊による統治が失われ、結果的に、教会と世を隔てる十字架がなくなって、教会が再びこの世の支配下に置かれ、そこにいるクリスチャンも世の奴隷状態に逆戻りするだけであることをパウロは知っていたのです。

 これが、「ロトの妻を思い出しなさい」というイエスの短い警告の中に集約されている意味でもあります。出て来たソドムの街をただ「振り返った」という、単純な人の目から見れば”何気ない”ように見えるロトの妻の行為の中に、彼女を突き動かしていた動機が何であったのか――それが彼女自身の古い命を惜しみ、それを自分で保とうとする肉の欲によるものであったのか、それとも、彼女のいのちが主の中に失われることによって彼女のいのちが主によって(よみがえりのいのちの領域で)保たれる御霊の思いであったのか――が象徴的に表われているのです。

 教会内部で起きた争いごとが収拾がつかなくなった時、この世の裁判に頼ってそれを解決しようとすることは、人間の目には手っ取り早く、良識的な解決のように見えるかも知れません。「弱者(としての自分)を守る」という大義名分がそこにあれば、それはヒューマニズムにも合致しており、人間の諸権利を守る側に立っているので、悪があるようには思えないかも知れません。人間の目から見れば、そのようにして自分を守ろうとすることが、無事に生きながらえるための最善の道であるように見えます。アダムの命を守るためには、それが最善のように見えます。ところが、信仰にあってはその実、すべてが逆なのです。
「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。」(ルカ17:33)

  聖書によれば、初めから今に至るまで、世が御霊から生まれた者を正しく保護したという話は聞きません。ですから、そのようにして、クリスチャンや教会が神ではなく、この世に助けを求めてすがるなら、それはクリスチャンが自分を最も正しく弁護して下さる方を捨てて、最も信頼ならない相手に弁護を求めて申し込むことを意味しますので、それによって、クリスチャンが自分を救うことは決してできないでしょう。そのようにしてクリスチャンや教会が世に助けを求めるならば、教会はこの世の残酷な支配のもとにさらされ、争いによって引き裂かれ、クリスチャンは自己正当化の思いで頑なになって、自分の命を保つどころか、前よりも悪い状態になっていくことがほとんどなのです。

 ですから、クリスチャンが目を覚ますべき時が来ているものと思います。一体、クリスチャンが神の保護に頼らずに、信仰によらずに自分で自分を守るようにという提案をしきりに勧めては、クリスチャンが信仰を失って破滅していく手助けをし、しかも、クリスチャン同士が告発しあうようにそそのかしては教会を分裂・弱体化させ、しかも、法にも基づかず公の承認もなしにカルト監視機構を思わせるような懲罰機関を勝手に作っては、そこでいわれなく人々を裁いて恐怖に陥れ、ありとあらゆる虚偽を広めてはクリスチャンを中傷し、しかも、裁判を通じて、教会を御霊ではなく、世の支配下に置くことを積極的に勧めているカルト被害者救済活動は、どこから発生して来たものなのでしょうか? これがキリストの御霊による聖書に基づいた運動でしょうか?

 この運動の支援者たちはまさに、われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者」(黙示12:10)のように振る舞っており、兄弟を愛さないこと、兄弟を告発し、絶え間なく教会と争い、偽りを広め、法をまもらず、礼儀を尊重せず、嘘をつき続けることで、自分たちが神から出て来た者ではないことを自らはっきりと告白しているのです。「神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない兄弟を愛さない者も、同様である。…カインのようになってはいけない彼は悪しき者から出て、その兄弟を殺したのであるなぜ兄弟を殺したのか。彼のわざが悪く、その兄弟のわざは正しかったからである。」(Tヨハネ3:10-12)

 「わたしたちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを、知っている。愛さない者は、死のうちにとどまっている。あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。」(Tヨハネ3:14-15)

 「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない彼のうちには真理がないからである彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。」(ヨハネ8:44)


 欺かれてはいけません。 キリスト教界がこれまで多くの異端の教えを検証もなく受け入れて教え、多くの信徒を真理の外に迷い出させ、深く傷つけたこと自体は打ち消せない事実です。この問題についてクリスチャンに憂いがない方がおかしいでしょう。しかし、間違ってはいけません、私たちはこの問題を、聖書に基づかない、御霊によらない、どんな人間的な方法によっても解決できないのです。信仰を通さず、御霊によらず、悔い改めと内的刷新という聖書の示している内面的解決以外の方法によっては、この問題を誰も決して是正することも、改善することもできません。聖書の示している人の罪の問題の解決は、常に十字架に基づく内側からの解決であって、外側から何かの強制力によって人の罪や悪を取り除こうとする全ての試みが失敗に終わるのです。いいえ、失敗に終わるだけでなく、それは以前よりもはるかにひどい悪をもたらす結果になるのです。なぜならそれは神のご計画に反しており、真理に反しているからです。そのことを私たちはカルト被害者救済活動の恐ろしい暴走を通して、すでに目の前に事実として見ています。

 何度も述べて来た通り、教会の腐敗という問題が起こったのは、そもそもクリスチャンが聖書の御言葉から逸脱し、御霊を悲しませ、まことの神ご自身から離れたことが原因であり、教会の問題を解決するには、まずこの背信の罪をクリスチャンが自ら認め、神の御前にへりくだって悔い改めることが必要です。それなしに、つまり、個々人がキリストの十字架に立ち戻ることなしに、キリスト教界が悔い改めに導かれることはありませんし、キリスト教界の問題が解決されることもありません。依然として人が頑なに己を義とし、悔い改めを拒んだまま、自分以外の他者だけを責め続けているような状態では、どんな方法論を用いてみたところで、事態は悪化するばかりで、解決は決してあり得ないでしょう。裁判、カルト監視機構、クリスチャンを吊るし上げるためにブログで行なわれる違法な制裁、等々、教会の問題を聖書によらない方法で、信仰によらない、御霊によらない方法で解決しようとするなら、それは最終的に、神ご自身の御思いに敵対し、いずれ全クリスチャンと教会に、そして御霊そのものに敵対する道になっていくのです。

 すでに述べたように、聖書に照らし合わせるならば、クリスチャンが神の義であられるキリストの十字架を退けて、自己の義に頼って自分を救おうとすることそのものが恐るべき罪です。私たちを救って下さる方はただお一人であり、私たちを義として下さる方もただお一人であり、他者と比べて私たちが何か勝っているから、あの悪人どもよりはましだから、そのことが私たちを義とするのではありません。私たちを義とするために、すでに子羊の血による赦しが与えられているのです。それなのに、どうして私たちが自分を弁護して下さる方を退けて、大した力もないのに、自分で自分を弁護するために再び苦しんで生きる道を選ばなければならないのでしょうか。クリスチャンが自分の命を保とうとするために、さらには自分を傷つけた兄弟を訴えるために世に助けを求めて出向いていく、こんな方法でクリスチャンの命が保たれ、教会の健全な秩序が保たれることは決してないのです。だから、パウロは言ったのです、
「しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。」(Tコリント6:6-7)と。



8.肉によって生まれた者が霊によって生まれた者を迫害する


 悲しいことながら、上記に述べたようなことは、こうして紙面を割いて書かなくとも、聖書に照らし合わせれば明々白々の事実であるにも関わらず、多くのクリスチャンが”弱者救済”という言葉の美しい響きゆえにこの偽りの運動に欺かれていきました。この運動はもう終わりが来ているとはいえ、事態が非常に抜き差しならないものであるように感じられるのは、カルト被害者救済活動の支援者たちの掲げる「弱者救済」という、うわべだけ人間の耳に良さそうに響く理念と、自分にとって都合が良いようにいくらでも事実を歪曲しては、ただ他人だけを一方的に告発・非難していればよいという無責任で甘えた姿勢が、何かしら一種の魔力的な魅力を持つ強烈な誘惑(もしくは霊的感染力)となって、多くのクリスチャンをととりこにし、彼らが冷静に事実を見ることを妨げてきた点なのです。

  聖書に基づかない偽りのイデオロギーの恐ろしさは、「弱者救済」という旗を振りかざすことで、どこまでも人間が自分を正義とみなせるかのような幻想を生み出すことにあります。自分たちは不当に虐げられた哀れな被害者なのであり、被害者の味方をしているのだから、正しく、良い事をしているのだと考えることによって、まるで自分が正義の代表になったかのような思い込みが生まれ、この自己正当化の思いの中で、謙遜やへりくだりや悔い改めの心が失われていき、自分の都合の悪い欠点や、罪はすべて見なくて良いような気になり、過去の失敗や過失は全て人のせいにして棚上げするのが当たり前になり、だんだん、そうこうしているうちに思考に深刻な歪みが生じて、事実が正常に受け止められなくなっていくのです。そのうち、被害者や自分たちに味方しない人たちを全て”悪人”と決めつけて断罪するようになり、自分の直視したくない罪や欠点を、全てそれらの”悪人”と決めつけた他者に転嫁して、彼らだけを非難していれば、自分は決して何事にも責任を負わされることはないかのような幻想に陥っていきます。自分のしていることが全く分からなくなるため、その自己流の正義の旗の下で、自分の気に食わない人物を容赦なく非難し、踏みにじって復讐をなしとげるようになるのですが、そうして残酷な制裁を平然と行なう一方で、自分たちは哀れで弱い被害者であるがゆえに、周囲からの愛や憐れみや同情を当たり前のように乞い求めて良いし、それ受ける資格があると考えて、またもや自分に十分な愛を示してくれない他者を断罪するという、自己の罪は決して見ずにただ他人だけを罪定めするための無限ループとでも呼んだ方がいいような、途方もなく甘えた開き直りの心境が生まれるのです。

 このような幼児的に退行したと言っても良い、一人の大人として全くふさわしくない、無責任で野放図で甘えた心理状態が、カルト被害者救済活動の広がりとともに、多くのクリスチャンに疫病のように伝染していきました。もう一つ、この運動に共通して言えることは、定職についていない、社会でも比較的優遇されていない、貧しく、また暇をもてあまし、社会から疎外されているがゆえにブログやインターネットが自己主張のための最も主要な手段となっていたような人々がその影響力を多大にこうむったということです。社会全体に先行きの見えない不安が広がるに連れて、上記したような無責任で野放図な運動が、社会で行き場を失った人々の不安心理と巧みに響き合って支持者を集め、杉本氏のブログが隆盛を極めたのを機に、爆発的なピークに達して、数多くの教会とクリスチャンに破壊的な影響を与え、主の御名を汚し、甚大な悪影響をキリスト教界に及ぼすに至ったのです。

 次章で詳しく論じますが、これは明らかに、キリスト教とは本来全く別の起源を持った、人の自己を限りなく野放図にさせて、クリスチャンを正常な信仰から逸らせてしまうような偽りのイデオロギーが、巧みにキリスト教を装って外から入ってきたことを表わしています。明らかにこれはクリスチャンにもたらされた霊的な病なのであり、大勢の敬虔な信者がそれに欺かれ、悪影響を受けたのです。キリスト教界内に、自己を義とする危険な霊的影響力が忍び込み、己が罪を見ずに、しきりに罪の所在を自分以外の環境や他者に求めては、責任転嫁し、無実の兄弟たちにいわれのない罪を着せて、兄弟たちを訴えることで、自分がこの世でこれまで受けてきた全ての憂さを晴らそうとする”告発者の霊”が集団感染して、それが多くのクリスチャンの間に蔓延して病理的思考の無限拡大のような状態が起こったとでも言う他ありません。

 何年も前から、カルト被害者救済活動がいかに危険な運動であるかを私がクリスチャンに訴えて来たのは、この運動が掲げる”弱者の正義”という人間に優しい言葉が、それに関わる人々の自己を極限まで甘やかし、肥大化させてしまう口実となる危険性を持っていたからなのです。

 これはクリスチャンが神の義によらず、自己の義により頼むことが、どんなに主の御前に罪深いことであり、クリスチャンを異常にしてしまう出来事であるかを如実に物語っているように思います。

 聖書を見るならば、被害者であるか加害者であるか、弱者であるか強者であるかに全く関わらず、人が自分で自分を義としようとすることそのものが罪であることが分かります。なぜなら、真の義はキリストにしかないからです。創世記において、動物の犠牲の血――キリストの血潮の予表――を捧げて神の実前に立ったアベルは神に受け入れられましたが、血潮によらず、己の義を掲げて神の実前に立ったカインは罪に定められました。カインは必ずしも悪人のようではなく、生まれながらの人の中にある最善のものをもって神の御前に進み出たのかも知れませんが(これはしばしば宗教的自己という偽装された肉の形で私たちの目の前に現れます)、それでも、カインの”宗教性”は神に受け入れられる根拠とはなりませんでした。キリストが十字架で流された血潮によらない彼の自己の義は罪に定められたのです。その時、カインはどうしたでしょうか? 自らの罪を認めて神の御前に悔いたのでしょうか? いいえ、彼はあくまで自分を義とし、自らの罪を無実の弟アベルに転嫁し、アベルを殺すことで自分の罪の身代わりにしようとしたのです。

 生まれながらの全ての人は神の御前に罪人であるという事実を認めない人は、神の真理にさからっているのですが、自己を義とする人々は、神の事実を捻じ曲げるために、結局、自己の内に存在する罪を誰かに責任転嫁しないではいられません。そこで、神を有罪として訴えるか、無実の兄弟に罪を着せて告発せざるを得ないのです。これは一つの法則性のようなものです。

 神の義によらずに、生まれながらの肉に基づく自己の義によって歩んでいる人々は、神の御霊によって歩んでいる人々に敵対し、彼らを迫害しないわけにはいかないのです。この構図はいつの時代にも共通してあることをパウロは次の言葉で表わしています、
「兄弟たちよ。あなたがたは、イサクのように、約束の子である。しかし、その当時、肉によって生れた者が、霊によって生れた者を迫害したように、今でも同様である。」(ガラテヤ4:28) 

 そこで、今の終わりの時代に、なぜ他でもないクリスチャンの兄弟姉妹と呼ばれる人々の間で、兄弟同士の激しい告発のようなことが行なわれているのか、私たちはここから幾分か理解することができるでしょう。なぜ多くの人たちが嘘の心理的からくりに陥って、無実の兄弟姉妹への憎しみに駆り立てられて、満足な証拠もないのに彼らを平然と迫害し、辱める側に立ったのでしょう? これについては、その背景に異端化した教義(キリスト教の装いをした偽りのイデオロギー宗教)の存在と影響があることを指摘しないわけにはいきませんので、それについては第二章で詳しく述べますが、いずれにせよ、ここに霊によって生まれた者を、肉によって生まれた者が迫害する、という構図を私たちは見るのです。

 カインが無実の弟アベルを殺したことや、イシマエルがイサクを苦しめたのは、新約において、肉によって生まれた者(御霊によって生まれていない者たち、この世)が、霊によって生まれた者(キリスト――いのちの君)を迫害し、殺すことの予表でした。イエスは言われました、
「世はあなたがたを憎み得ないが、わたしを憎んでいる。わたしが世のおこないの悪いことを、あかししているからである。」(ヨハネ7:7)。世がいのちの君を罪に定めたのは、罪のない方を十字架につけて、聖なる神の御子を有罪としてでも、決して己が罪を認めたくなかったからです。

 世が罪のない御子キリストを十字架につけたのは、まさに御子に罪がなかっためでした。
「それは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と書いてある彼らの律法の言葉が成就するためである。」(ヨハネ15:25)。罪がないのですから、本当は世から憎まれる理由もないはずです。ところが、キリストは罪のないお方であったこそ、憎まれたのです。なぜなら、彼によって世(と生まれながらの人々)は自分の行いが悪いことを照らされたからです。そこで、世は彼を憎みました。世はキリストによって己が罪を照らされた時、悔い改めて神の懐に立ち帰ろうとはせず、むしろ、自分の行いの悪から目を背け、自らの罪をいわれなく罪のないお方に転嫁することで、その責任から逃れようとしたのです。ちょうどカインがアベルにしたのと同じように、世はこの罪のないお方に自分のすべての罪をいわれなく負わせ、このお方を罰して世から消し去ることで、自分自身を義とし、無罪放免しようとしたのです。

 パウロは世の人々に向かって言いました、
「あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、いのちの君を殺してしまった。」(使徒3:14-15) ここに人間が下す善悪の判断というものの、言い逃れできない忌まわしさが究極的な形で表れています。世は人殺しの男に無罪判決を言い渡してでも、聖なる正しい方を罪に定めたかったのです。これが世の本質です。バラバが肉から生まれた、堕落した自分たちの身内であるがゆえに、世はこの殺人者に同情し、人殺しへの”愛”や”憐れみ”や”赦し”をさかんに要求したのですが、もう一方では、御霊によって生まれた、この世に属さない、全く罪のないお方を十字架につけて殺すという恐ろしい残酷さに目をつぶったのです。それはこのお方が、彼らの”身内”ではなかったから、つまり、世に属していない罪のない方だったからです。

 お分かりになるでしょうか? 結局、世は自分自身が殺人の罪を犯していればこそ、自らの罪が明るみに出されないよう、殺人者としてのバラバの罪をかばったのです。同罪だからこそ、かばったのです。これは正義ではありません、なぜなら罪ある者が罪ある者を義とすることはできないからです。また、これは弱者に対する真の憐れみでもありません。そこには、他者の弱さをかばうと見せかけて、本当は自分自身の罪を明るみに出されたくない世の巧妙な欺きがあるだけだからです。

 ここに神によらない、生まれながらの人間の唱える直接的な”弱者救済”という理念の本質的な忌まわしさがあるのです。なぜ多くの人たちが歴史を通じて、様々な弱者救済の偽りの理念に欺かれたのか、なぜカルト被害者救済活動の支援者は、カルト被害者を救うことにそれほどまでの関心を示したのか、それは”弱者を救う”と見せかけて、彼ら自身が、自分で自分の罪を無罪放免し、自己救済を成し遂げたかったからに他なりません。もしそうでないならば、カルト被害者からの支持も失っていながら、なぜこの運動の支援者たちは未だに活動しているのでしょうか。誰のために活動しているのでしょうか。他ならぬ自分自身のためとしか考えられません。これは他者を救済することによって、自分が自己救済を成し遂げようとする代償行為です。支援者自身が自分を救うことが、この活動の本当の目的なのです。被害者はその手段でしかありません。しかし、神の義にも基づかず、自分の抱える本質的な問題にも向き合っていないため、決してその目的が成し遂げられることはないでしょう。

 教会によって傷つけられた人を優しくかばい、助けると言いながら、最も教会で傷つき、最も教会を赦せないでいるのはこの運動の支援者自身です。彼らは”弱者救済”を教会に対する自分の苦しみと怒りの口実にし、被害者をかばうと言いながら、その実、自分をかばおうとしているのであり、教会に対して(ひいては神ご自身に対して)自分の抱える怒りと憎しみを晴らすために活動を続けているに過ぎません。本当は彼ら自身こそが誰よりも憤っており、誰よりも憎しみに満ちていて、誰よりも赦すことができず、誰よりも教会を憎んでおり、誰よりも復讐をねがっており、救済されなければならないのは被害者ではなくまさに支援者たち自身であるのに、彼らは一人の憐れまれるべき惨めな罪人として、神に助けを求めて叫ぶということをしないのです。そして、自分の抱える深刻な内面的問題は隠したまま、まるで他者の救済者のように振舞い、自分の問題を他者に投影し、それを解決してやると見せかけることで、人々の上に君臨しようとし、自分の罪にも惨めさにも決して目を向けようとせず、神の憐みから堅く心を閉ざしたまま、断罪されるべきは他者であり、救われなければならないのもあくまで他者だとしているのです。

 話を戻せば、生まれながらの人間は、何とかして肉の罪深い本質が暴かれることなく、自分の罪が照らされることなく、義に達する道がないかと模索しています。生まれながらの人間の心の中には、自分のものであれ、他人のものであれ、人間の罪を決してあるがままの罪として暴かれたくない・見たくない・認めたくないという思いがあります。他人の罪が暴かれることも、自分の罪が暴かれることも同じように、生まれながらの人間にとっては脅威になり得ます。人間は人間を良いものとみなし、人間に恥をかかせたくないのです。だからこそ、人は自分が間違いを犯したことが明白である時でさえ、悪いのはその人を苦しめた環境であって、その人(弱者)自身に罪はないと思いたいのであり、そう言ってくれる他者に飛びつきたいのです。しかし、それは神の事実に基づいた結論ではありません。神は私たちのあるがままの姿がどんなものであるか知っておられます。弱者であろうと、虐げられた貧しき人々であろうと、抑圧された者たちであろうと、一人残らず、神の御前には惨めな罪人に過ぎません。しかし、光の下に正直に進み出たくない人々は、自分の裸の恥を神の御前で隠し、自己の罪を美化しようとするだけでなく、他者の罪が暴かれることに対しても、激しく抵抗することがあります。そして、罪を罪としてはっきり指摘し、神に立ち戻るよう忠告する人をいわれなく罪定めして退け、逆に、罪を隠蔽し、かばうことを、思いやりや、憐れみや、優しさなどと呼びかえ、悔い改めに導かれる必要のある他者に向かって「あなたは正しいので、悔い改めなど必要ない」とささやき、その人をさらに神から遠く引き離してしまうのです。

 「バラバを十字架につけるな、キリストを十字架につけよ!」という叫びの根底には、何とかして人間に十字架を経由させることなく、人が罪を認めることも、悔い改めることもなくして、人間が傷ついたり、恥じ入ったり、名誉を失うことなくして、尊厳を保ったまま無罪放免される方法がないのかという、人の生まれながらの自己の叫びがあります。

 そこで、バラバのような犯罪者に対してまでも、”同情”や”愛”や”憐み”を求めて叫ぶことは、人間を罪定めせず、人間に恥をもたらさないからこそ、人の目にはしばしば非常に美しい、ヒューマニスティックな、憐れみに満ちた、同情的な行為に見えるかも知れません。しかし人間にはどんなに正しいことのように思われたとしても、そのように”弱さ”や”思いやり”を盾に取って、”罪”の隠れ蓑にすることは忌まわしいことです。”弱者”であるから、”被害者”であるから、”虐げられた貧しき人々”だからといって、その人たちに義があるわけではないのです。全ての人が神の御前に生まれながらに罪人なのです。それにも関わらず、”弱者”の美名を利用して、人が自己の内にある罪の本質から目を逸らし、己の内にまるで正義があるかのように思い込み、実際にそう主張していく時、それはいかに人の目には崇高な理念のように見えたとしても、人が神の義を退けてでも、生まれながらの人間を義としようとする、巧妙で悪質な神への反逆になるのです。そうであるがゆえに、人間の身勝手な裁きは、うわべは人間を罪定めしないように見えるため、寛容に思われますが、その実、全ての人をいわれなく断罪するような残酷な結果をもたらさざるを得ないのです。人間の裁きによっては誰一人義とされません。キリストの十字架こそが最も公平な神の裁きであり、それを退けてどんなに人間が自己流の裁きを行なおうとしても、それはただどうしようもなく理不尽で腐敗した、不公平で憐れみに欠ける、残酷で反人間的なものとならざるを得ないのです。

 クリスチャンが正直に罪を罪と呼ぶことをやめ、罪人がキリストと共に十字架へ赴く必要を否定して、むしろ、罪人に対する神の刑罰としての十字架を退けて、罪人に対する直接的な”愛”や”憐れみ”や”赦し”や”慰め”の必要を訴えていくとき、それは私たちが再び、バラバを赦してキリストを十字架につけよと叫んでいるのと同じなのです。どんなにヒューマニズムの美しい装いを凝らしていたとしても、それは神への最も恐ろしい敵対・反逆に他ならないのです。しかし、罪が暴かれない状態、自分は責任を追及されずに済む状態、悪いことはすべて人のせいにできる無責任な状態が人間にとって心地よいものであるがゆえに、多くの人が”弱者の正義”という偽りの大義名分に欺かれ、それを口実にして生まれながらの人を義としようとする危険な誘惑に陥っていくのです。

「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。」(Tヨハネ1:8) 「光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛した」(ヨハネ3:19)

「悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。」(ヨハネ3:20-21)

 パウロは言います、「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。」(Tコリント2:14) 肉によって生まれた人(生まれながらの人間)は、神の御霊に属する真理を理解できませんし、受け入れることもできません。信仰により、キリストの御霊によって生まれていない人、肉によって歩んでいる人には、キリストの十字架の真理はただ人を罪定めするたわごととしてしか聞こえないばかりか、深く自分に敵対する脅威として受け止められます。そこで、世は罪人のためにはどれほどでも憐れみの涙を流したとしても、神が自分へと差し出してくる十字架を憎み、排除しようと試みるのです。キリストの十字架は人の生まれながらの自己の腐敗、生まれながらの人(肉)の腐敗を容赦なく明るみに出します。肉なる人は自己の罪が暴かれないことを願って神の義である十字架に敵対します。十字架を退けて自分で自分を義としようとするだけでなく、さらには真理を証しする聖徒らにも敵対するのです。それは自分が罪定めされないためです。

 ですから、主イエスは言われました、
「兄弟たちよ。世があなたがたを憎んでも、驚くには及ばない。」(Tヨハネ2:13) 「あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。」(ヨハネ15:19)

「弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。もし家の主人がベルゼブルと言われるならば、その家の者どもはなおさら、どんなにか悪く言われることであろう。だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現われてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。」(マタイ10:24-26)
 

 罪のない神の独り子が世からどのような扱いを受けたか私たちは知っています。御霊によって生まれた神の子供たちは、なおさら、どんなにか悪く言われることだろうと主イエスは言われました。多くの人々が、兄弟姉妹が迫害に遭うと、彼らを見捨てて去って行きます。誤解や、迫害や、孤立からは、何の信仰の実も結ばれるはずがないと早々に決めつけて、苦しんでいる兄弟姉妹からは「信仰の良い実が見られなくなった」と蔑むのです。そこにもまた、苦難や、迫害や、誤解を蔑むことで、決して自分だけは十字架の試練にあずかりたくないという、十字架を厭う心理が巧妙に働いているのを見ることができます。

 しかし、聖書を見れば、逆であることが分かります。永遠にいたる実が結ばれるためには、私たちは地上的な宝を主にあって失うことが必要であり、一粒の麦が地に落ちて死ぬことなしに、多くの実が結ばれることはないと書かれています。真理に忠実に従う人々に、世から理解や賛辞が与えられるだろうと書かれている箇所は聖書に実に一箇所もないのです。クリスチャンの道は地上で自分が栄光を受ける道ではありません。しかし、同時に、主イエスは迫害を予告しながらも、それを恐れてはいけない、必ず、神の目に何が真実であるかが明らかにされる時が来るから、ということをも示されたのです。

 こうした聖書のいくつもの文脈に照らし合わせるならば、なぜ「弱者の正義」を掲げるカルト被害者救済活動の支援者たちが、大規模なクリスチャンの迫害に及んだのか、その理由はもはや明白でしょう。パウロの言ったように、いつの時代も、肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害するという構図は同じであり、人間の生まれながらの義を掲げる人は、神の義によって生きる人々に敵対せざるを得ないのです。

 ここに、神を抜きにした”弱者救済”の理念や、神の義によらない、人間の自己の義に基づいたヒューマニズムの運動の絶望性を見ることができます。それは一見人を高く掲げ、人を罪定めせず、人にとって魅力的な理念を掲げているため、人間にとっては美徳や、救いのように見えるかも知れませんが、キリストの十字架を抜きにして、人を悪から解放しようとする全ての理念が、その実、人を救う力がなく、かえって全ての人を最も不公平で容赦のない裁きによって罪定めし、神が義として下さった人々にさえ敵対し、大勢の人々を恐怖の奴隷とし、傷つけるだけに終わるのです。


 しかし、神を本当に信じているキリスト者は、神の光の下に進み出ることで、自分自身の罪が明らかにされることを恐れません。真のキリスト者は自分の罪を直視する痛みと向き合うことを恐れず、それを「弱さ」や「憐れみ」や「愛」などの言葉で曖昧にごまかすことは望みません。それは何よりも、私たちキリスト者が、自分にとって都合の良い事実を求めているのではなく、神ご自身の揺るぎない真実を求めているからであり、また、罪に対する照らしがあると同時に、憐れみ深い神のご計画に従って、子羊の血潮による罪の赦しも与えられていることを知っているからです。罪を罪として認めないことは、神ご自身から身を避けるのと同じことであり、それは一見、人間に都合が良い解決のように見えても、実は一番、神の憐みから遠ざかる道なのです。

「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。そればかりでなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。」(ローマ5:10-11)

「もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおして、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。」(ローマ5:17-19)

 最後に、クリスチャンを名乗っているにも関わらず、主が血潮によって罪赦されたクリスチャンをいわれなくそしり、聖書の御言葉を曲げてでも、教会とクリスチャンを踏みにじり、数々の汚しごとを言い、キリストの花嫁である教会を争いによって引き裂き、虚偽に満ちた議論を展開しては、多くの人々を欺いてキリストの御名を貶めて来た人々が、この先、どうなるかは聖書が予告している通りです。

「…この人々は自分が知りもしないことをそしり、また、分別のない動物のように、ただ本能的な知識にあやまられて、自らの滅亡を招いている。」(ユダ10)

彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた全ての人を、さばくのである。」(Uテサロニケ2:10-12)

「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に値することであろう。『復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と言われ、「また『主はその民をさばかれる』と言われたかたを、わたしたちは知っている。生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。」(ヘブル10:28-31)

 キリストの十字架こそが最も大いなる試金石です。しかし、時折、神の霊なる家に築き上げられる最も小さな石も、小さな試金石としての役割を果たすことがあるのではないかと思わずにいられません。

 私だけではなく、数え切れない多くのクリスチャンが、こうしてカルト被害者救済活動の陣営から苦しめられるに至ったのは、恐らく、主があえて神の子供たちの存在の只中を通過させることによって、この運動の十字架に敵対する本質を、万人の前に明らかにされるためであったのではないかと考えます。エレミヤは主から言われました、
「わたしはあなたを民のうちに立て、ためす者、試みる者とした。あなたが彼らの道を知り、それをためすことができるようにするためである。」(エレミヤ6:27) 

 ですから、イザヤの言ったように、あえて辱めを避けようとする必要もないのです。 
「わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、恥とつばきとを避けるために、顔をかくさなかった。」(イザヤ50:6)

 主が遣わされた預言者の中で、世から歓待された預言者は一人もいません。ですから、すべての先人たちが辿り、そしてキリストが受けられた苦しみにあずかれるなら、信仰者はいつでも大きな喜びに包まれるのです。

「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対して偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:11-12)。 

 私たちは無実の兄弟たちを安易に蔑んだり、踏みにじることにどんなに重い報いが伴うかをよく考えてみなければなりません、
「あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。」(マタイ18:10)「あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである」(マタイ25:24)

 さて、カルト被害者救済活動の支援者たちはあらゆる方法でクリスチャンを脅かそうとしたかも知れません。そこで中には、ダビデが述べたような苦境を通らされた人もいるかも知れません。
「わたしはわが兄弟には、知らぬ者となり、わが母の子らには、のけ者となりました。」(詩篇69:8)「そしりがわたしの心を砕いたので、わたしは望みを失いました。わたしは同情する者を求めたけれども、ひとりもなく、慰めるものを求めたけれども、ひとりも見ませんでした。」(詩篇69:20)「あなたはわが知り人をわたしから遠ざけ、わたしを彼らの忌みきらう者とされました。」(詩篇88:8)「わたしは多くの人に怪しまれるような者となりました。」(詩篇70:7)

 しかし、そこでダビデは何と言っているでしょうか?
「しかしあなたはわたしの堅固な避け所です。」(詩篇70:7)

「悪しき者は正しい人をうかがい、これを殺そうとはかる。主は正しい人を悪しき者の手にゆだねられない、またさばかれる時、これを罪に定められることはない。」(詩篇37:32-33) 「正しい人の救は主から出る。主は彼らの悩みの時の避け所である。」(詩篇37:39) 

「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。」(詩篇55:22)


 たとえクリスチャンが
「…極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、心のうちで死を覚悟」(Uコリント1:8)するような時でも、「自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みにする」(Uコリント1:9)恵みが与えられています。そして、私たちの神は私たちのこのような信仰を喜んで下さる方です。主が私たちの持っているものの中で、唯一手放しで誉めて下さるものがあるとすれば、それは私たちの信仰です。神は私たちの信仰に誠実に応えて下さる方です。ですから、私たちはいつでも言えるのです、「神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。」(Tヨハネ5:18)と。「あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。」(詩篇23:5)と。

 ですから、
「ほえたけるしし」(Tペテロ5:8)の上げる咆哮がどんなにひどいものであっても、クリスチャンの心はキリストにあって平安に安んじていられるのです。それは、私たちがどんなに脆く卑しい土の器であったとしても、私たちの内におられるキリスト、この方こそはかりしれない神の力であり、私たちの揺らぐことのない栄光の望みであるからです。十字架において暗闇の世の諸々の権威と支配を打ち破られ、私たちのために勝利をとられた方に、賛美と、誉れと、栄光と、力とが、世々限りなくありますように。

「事はすでに成った。わたしは、アルパであり、オメガである。初めであり、終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行なう者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。」(黙示21:6-9)

「今や、われらの神の救と力と国と、
神のキリストの権威とは、現れた。
われらの兄弟らを訴える者、
夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、
投げ落とされた。
兄弟たちは、
小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、
彼にうち勝ち、
死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。
それゆえに、天とその中に住む者たちよ、
大いに喜べ。
しかし、地と海よ、
おまえたちはわざわいである。
悪魔が、自分の時が短いのを知り、
激しい怒りをもって、
おまえたちのところに下ってきたからである。」(黙示12:10-12)


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